[兵庫神戸] 三宮駅〜本当は怖い『火垂るの墓』/ 岡田斗司夫ゼミ















[兵庫神戸] 三宮駅〜本当は怖い『火垂るの墓』/ 岡田斗司夫ゼミ
岡田斗司夫: 本当は怖い『火垂るの墓』
YouTube『 岡田斗司夫チャンネル』
2024.10.1     
毎月1日は,限定解除動画ということで,有料会員しか今まで観れなかった動画の中から1本選んで1週間だけ無料公開してるんですけど,2024年10月1日の限定解除は,Netflixで世界公開が始まって現在注目度がすごい高まってるアニメ『火垂るの墓』についての動画です。こんばんは。岡田斗司夫ゼミです。10月の岡田ゼミ,週に2〜3回更新してる動画なんですけども。大体過去動画なんですけど,ハロウィンの季節だから,ホラーとか不気味な話,ちょっと怖い話,そういうのやろうと思ってます。で,そのホラー特集の1本目として,1988年高畑功監督が手がけた『火垂るの墓』の解説動画出します。こういう話をすると,『火垂るの墓』っていわゆる戦争映画,かわいそうな兄弟の話じゃないかっていう風に思う人多いと思うんですけども,あれは実はホラー映画として書かれているんですよね。細かく読み解いていくとなかなか怖いお話なんです。今日はそんなアニメ『火垂るの墓』の解説動画を,限定部分まで含めて無料公開しますので,この機会に是非ご覧ください。この動画は2018年4月15日配信した岡田斗司夫ゼミ第226回を限定部分まで含めて無料公開します。10月8日までは1週間だけの限定解除になりますのでよろしくお願いします。それでは無料公開スタートです。 
…すいません。あのずっと本当1分前までパネル作っててですね,最後の原稿整理とかをしてて。 あ…ちょっと待って原稿整理じゃまだ足りねえやえっとペンだけ持っとかないとごめん。ごめん。 よいしょ…大丈夫ですか?皆さん? 近況から言っとくと,2018年4月も半分過ぎちゃいました。4月15日ですよ。んでSF映画の公開ラッシュ。6月の『スターウォーズ・ハンソロ』まで続いて,7月から『ジュラシック・ワールド』とかなんか夏の映画に入っちゃう。とりあえず4月は金曜日に『ジュマンジ』があって,『パシフィックリム』があって,来週スピルバーグの『レディプレイヤー1』があって,再来週は『アベンジャーズ・インフィニティウォー』があるっていう,すごいもうキツキツのスケジュールなわけですね。だからもうついていくだけでも結構精一杯なんすけど,まその辺の,どれが実はおすすめかとか面白かったかっていうヤツはまた来週やろうと思います。 僕の方は,おかげ様で腰が治って,映画観るのも全然気にならなくなってきました。国内旅行ぐらいだったら行けるなという感じになってきたわけです。
今日はついに『火垂るの墓』ですね。 公開されたのが1988年4月16日なんですよ。なので実は公開された1988年4月16日から明日でちょうど31年目なわけですね。というわけで31年目の答え合わせという風なことで,ついこの間に金曜ロードショーやられたので,今日は分析していきたいと思います。 僕は本当に思うのは,どうしてあんなに辛いというか,しんどいというか,観てる人の心を掻きむしるような映画なんだろうかという,もう唯一無二と言ってもいいアニメ映画作品の秘密に迫りたいと思います。これ前半と後半2つに分かれてまして,一応前半は,本当は10倍怖い『火垂るの墓』。よく言われてる,もしくはこれまで僕が話してた何故こういう風になったのか?っていうような話もあるんですけど,そういうのより実は10倍程度怖いよっていう「本当は10倍怖い『火垂るの墓』」と,後半は「前半の100倍怖い『火垂るの墓』」ということで,多分今回の動画聞いちゃうと一生『火垂るの墓』観る度に,これが頭の中に入ってきて,みんなと一緒に泣いて感動できなくなると思うので,正直覚悟して観てくださいね。本当に僕も今日の昼から夕方ぐらいまで,これすげえ話になるけど大丈夫かな…って思ったんですけども,まあまあ頑張ってみようと思います。
こないだ金曜ロードショーで放送があったんですけど,放送の反響って,大体5パターンに分れるんですよ。1つ目は「もうとにかくおばさんが憎い」。あの清太が世話になったいう親戚のおばさんが憎い。 で,例えば「米を取った」とか「清太の米を取ったくせに」とか「言い方が意地悪だ」とか,とりあえずそういうおばさん憎いという意見。 次に「清太が悪い」発言。「とにかく寝てないで遊んでないで働け」と。「食うもん食った後,洗い物おばさんにさせているんだったら嫌われて当たり前だ」っていう清太悪い発言。3番目は「戦争が悪い」発言。そんなことになったのも戦争って状況があるからだと。戦争という状況にみんな追い詰められてるから,おばさんはもう言葉が強くなってくるし,清太みたいな,本当はお坊ちゃんで,海軍士官の息子なんだから,普通にわがままに暮らせたのにそうはいかなくなって,もうこれ戦争が悪いんだと。 4つ目ですね。これも割と多いのが「こっちおいで」。 とにかくもう清太も節子もうちに来たら何で食べさせてあげるからっていう悲鳴のようなツイートです(笑) みんなそんなに辛いんだって思ったんですけども。5つ目ですね。「観てられない」発言ですね。「とにかくこんな辛い番組を観てられないからロンドンハーツに逃げました」とか「CMになる度にロンドンハーツに行く人がどんどん増えてった」というやつですね。 アンケート用意できたそうです。アンケートえ4択出してください。 皆さんどれぐらい『火垂るの墓』を観てるでしょうか?
1:『火垂るの墓』観てないし,これからも観ない
2:『火垂るの墓』観てないけど観る予定
3:『火垂るの墓』観たけどもう2度と観ない
4:『火垂るの墓』観た。また観るぜ
これ,今日僕の放送聞いたからまた観るというんじゃなくて,これまでとりあえず今日までの印象でいいから,答えてください。 結果そろそろ出ますか?はいはい出してください。
2:『火垂るの墓』観てないけど観る予定=6%
3:『火垂るの墓』観たけどもう2度と観ない=40%
4:『火垂るの墓』観た。また観るぜ=40%
『火垂るの墓』観たという回答が80%ぐらい。大体80%の人が観たわけですよ。それはすごいな。 「辛いの分かってて観るわけない」。分かりました。今回の動画で,多分辛くはなくなると思うんですよ。怖くなるだけで。じゃあ行ってみましょうか。まず最初私お便りから行きます。
ー初めてお便りします。この度の高畑功監督の急逝に私もショックが隠せず,まだ心の整理がつかない状態です。「ジブリを挙げてお別れ会」という鈴木プロデューサーと「コメントを出す気になれない」という宮崎駿監督のやり取りは,まるでガンダムのガルマの国葬をめぐるデギンとギレンのやり取りに重なるのは自分だけでしょうか?ご本人のご冥福名を心よりお祈りします。
ー朝起きてびっくりするニュースが友人から回ってきました。なんと高畑功が亡くなってしまったではありませんか。年齢的には80歳を超え,普通に考えれば当たり前なのでしょうが,今までテレビで拝見していた高畑,宮崎両監督とも絶対に死なないイメージを強く持っていたので,今もショックでいっぱいです。私だけかもしれませんが,かぐや姫の物語で最後にか姫が意識を失って 月からの使者に連れ去られていくシーンがありますが,初見の時,なぜかそのシーンになって初めてダムが決壊したように私は号泣しましました。 ただ気持ちが高ぶっただけなのでしょうか?
…というお便りいただきました。で,この『 かぐや姫』の時に何故泣き出したのか?って,僕にもよくわかんないんですけども,感動が比較的分かりやすいのは宮崎駿作品の方なんですね。何故感動したのか言葉にしやすいっていうのかな,このキャラクターが好きだとか,セリフが心に染みたっていう風に思えるのが宮崎作品で,高畑作品の場合は感動しても,何故感動したのかよくわかんないと。だからしょうがなく,無理やり近くにある言葉で,例えばかわいそうだからとかなんかこういろんな言葉で代用しちゃうのがその高畑作品じゃないかなと思います。何故こんな言葉にしにくいのか?その理由を説明してみようと思います。ということで今日のレジュメです。 一応,前半後半2つに分かれてます。
前半
1:冒頭5秒の謎
2: なぜこんなトラウマアニメを高畑監督は作っちゃったのか? 
3:『火垂るの墓』っていうタイトルの意味
4:『火垂るの墓』のテーマ
後半
5:高畑勲の矛盾と宮崎駿の嫉妬
6:押井守の指摘
7:死は美しくて生きることは醜い
8:前半の100倍怖い『火垂るの墓』
こういう構成でお送りしようと思います。 
■ 冒頭シーンに隠されたストーリー構造
1:冒頭5秒の謎ってパート1からいきましょう。 みんな,なんか『火垂るの墓』というのをそもそもどういう話と思ってるのかっていうところから始めますね。一応,日テレの公式サイトに『火垂るの墓』のストーリーの簡単なまとめがあります。 
ー昭和20年9月21日夜,神戸三宮駅(さんのみや)構内で清太は息を引き取る。所持品はドロップの缶だけ。遺体を片付けていた駅員がその缶を放り投げると,中から小さな遺骨がこぼれ落ち,季節はずれのほたるが舞い上がる。 3ヶ月前の6月9日,神戸は大空襲に見舞われ清太は心臓の弱い母を先に避難させ,幼い妹節子を連れてあとを追う。 遅れて避難所の学校に着いた清太だったが,そこには変わり果てた母の姿が。母はそのまま息を引き取り,清太は節子とともに西宮にある親戚の家へ移るが,叔母は次第に清太たちに厳しい言葉を投げつけるようになる。 ご飯も満足に食べさせてもらえない。生活に耐えきれなくなった清太は家出を決意。 節子と2人で池のほとりの旅館で暮らすことになるが…
というストーリーが書いてあります。ストーリーはこの通りなんですけども,この後日テレの公式ストーリーの後は,空襲がまだ続いて,人の心もだんだん荒んでいって,清太は節子を食わせることもできなくなってしまうと。で,次第に節子は衰弱し,ついに息絶える。清太は節子の遺体を1人で荼毘に伏すって言うんですけど,火葬にして,自分も神戸の駅で息絶えるっていうのが全体のお話です。 で,実は今言ったこの大まかなストーリーだと思ってる人が全体の半分ぐらいいるんですよね。僕あの金曜ロードショーで「#火垂るの墓」 ってついてツイートずっと見てて,あとでまとめも見たんですけども,あのラストシーンを覚えてない人がびっくりするぐらい多いんです。ラストシーンあの1988年の神戸の町。清太と節子がベンチに座ってて節子は寝てるんですけども,清太だけが,繁栄映している1988年の神戸のビル街を見下ろしてるシーンていうのが『火垂るの墓』の基本中の基本だと思うんですけども,割とこれを憶えてないっていう方,どういう意味だか,受け取ってない人が多いんですね。最後に清太が死んだ後に,節子が迎えに来て成仏するかと思ったら,ラストの今の神戸のビル街。清太はまだ成仏してないのか?それとも現世に残って私たちを見つめてるみたいなメッセージだという風に,残り半分の人は解釈してるんですよ。つまり,あの2人は今も霊となって神戸の町を見下ろしてるんだよっていうぐらいのことを考えてる人がいて,残りの人はそこまで考えてないで,過半数の人がそもそもこのシーンを憶えてないっていうのが,今回ツイート見てて最大の驚きだったんですけどね。 かなりそういう風な意味ではオカルトではあるんですけど,ちょっと怖い映画だと。でこのシーンで終わるところが,やっぱこの辺がすごいところだと思った。ツイート読んでると,それを割と見てない人が多かったのがかなり驚きました。しかし,今回解説するのは,こういうレベルではなくてもうちょっと細かくやってきます。 冒頭の流れを説明します。 一番最初のカットですね。これも全部ではないんですけど,説明していきますね。
▽まず,暗闇の中にカメラ目線で真正面を向いた幽霊の清太が現れます。
「昭和20年9月21日夜,僕は死んだ」っていう風に関西弁で言って,清太がもう死にかけている自分を見ている。
▽幽霊の清太から見ると,その死にかけてる自分は一応まだ息をしてるんですね。ハァハァという細かい息をする。でもやがて崩れてしまうんですね。
▽そして駅員金がやってきて,清太が死んだことを確認。「ああこいつももう死んでしまった」ということで,遺品を探ってたら,ポケットの中からドロップ飴の缶が出てきた。何の缶か分かんないので,ポイっと捨てると,捨てられた缶から骨が出てきて,そこに季節外れのほたるがホワンと出てくると。 
▽そのほたるの中から1人の女の子,幽霊の妹が現れて立ち上がってお兄ちゃんの死体を見ている。と,そのお兄ちゃんの死体のところに駆け寄ろうとすると,後ろから止められる。
▽振り返ると,そこには優しい生きてた頃のお兄ちゃんがいて,2人で手をついでホタルがいる草原を歩いて右から左へ歩いてフェードアウトする。
▽その同じ位置にホタルの墓っていうタイトルが出てくる。 
あ,もう泣いてる?…すごいな,やっぱりみんな泣くんだな。はいというですね,こういう大きい流れでできています。 ちょっと簡単に説明したんですけども,よくよく見ると隠されてる部分というか,まだ生きている自分を死んでる自分が見つめるシーンですね。すごい秘密が隠されてるんですね。それは何かっていうと,実際はさらに細かくワンカットずつ検証していくとこうなります。 まずこれですね。 「昭和20年9月21日夜僕は死んだ」って言ってから,右下を見つめます。視線が右の下に流れると,駅の柱が映る。何かが手前に映ってるんですね。柱があって,ここの手前に何か物が映ってて,それがすっと消えたと思ったら,次に死にかけてる自分がフェードインていうか入り込んで,で次のシーンに流れるんですね。 これは何か。まだここに自分の死体が映る前,死にかけの自分が映る前にこういうものが現れてると。 なんか戦前の曲線じゃないですね。これ灰皿なんですよ。現代の灰皿。このデザインって現在の灰皿なんですね。で僕これ見た時に,「あそうかやっぱり」と思ったんですけど,つまり清太は死後の世界にいるけれども,現在もまだ生きてるんですね。1988年の映画なんですけども1988年の現在も三宮駅のあの場所にいて,で自分が死ぬ場面を思い出すと。1988年の現代世界にいて,未だに1920年の自分の死を思い出して苦しんでいるっていうことなんですね。で,本当にそうなのかなと思って,念のためブルーレイのディスク見たら,ちゃんと神戸の三宮駅まで行ったロケハン写真っていうのがあるんですね。で,ロケハン写真を見ると,この柱の横に,やっぱ同じデザインの灰皿があるんですよ。 これ別の柱なんですけども,この柱の横に今の灰皿を移動させたわけですね。というような形で,ロケハン写真を見ても分かる通り,ロケハンが行われたの1987年なので,現在の写真の灰皿を使うというようなことやってるんですね。 
つまり『火垂るの墓』っていうのは決して過去の話ではなくて,現在から始まってると。ラストシーンで現実現在に戻るってみんな思ってるんですけど,違うんですよ。そうじゃなくて冒頭1番最初から現在なんですね。で,現在から始まって清太の霊はあの場に未だにとどまっていて,自分の最後の人生,最後の3ヶ月間を何億回も何回も何回もリプレイして苦しんでるっていう話だと。じゃあ何故そんなはめになったのかと。現在の三宮駅にとらわれてる,マァ皆さんコメント欄に書いてる通り地縛霊みたいなもんなんですね。まァ地縛霊ってその場所にとどまるけど,清太は電車に乗って移動するんですけども。 じゃあ彼のとらわれてる過去とは何か。何故彼は,死後,映画公開時点で43年間もそこに囚われているのか?という理由説明がこの映画なんですね。 なぜ彼は未だにそのシーンから43年も経つのに,自分が一番辛かった時のことを未だに見返さなきゃいけないのか?っていう理由を説明してくれるという構造になってると。この全体構造がわかっていると映画の観方ってだいぶ違うんですよ。これってかわいそうな話とかそうではなくて,何故彼がこんなに43年間も自分の苦しかった時のことをずっと見続けなきゃいけないのか?,呪われてるのか?っていう,ミステリーになってるんですね。 
で,高畑勲としては,「もちろんストーリーの鍵を冒頭にちゃんと見せてるでしょ,ちゃんと冒頭に灰皿を映してるじゃん」と。いや,確かにそうなんですよ。僕も,なんか嫌な予感したから,観返した時にやっぱりと思ったんですけども,最後のシーンにも現在の神戸映してるから,最初にもやってるじゃんねえかな?と思ったらやっぱりやってたんですけどもですね。
「観客はもうこれ分かるはずだ」という風に高畑さんは思っちゃうんですけども,こんなの気がつくはずがなくて,金曜ロードショーの後のツイートでもそれ言ってる人0だったんです。 わかるはずがないんですよ。こういう『火垂るの墓』ってぼんやりしてると,こういう重要なカットを僕ら見逃しちゃうんですね。何故かっていうと,事前にこんな話だっていうイメージで観ちゃうから。 きっとこうかわいそうな話だから…こいつが素直じゃないから…こいつが意地悪だから…ってイメージで観てるから結構色々観飛ばしちゃうんですけども。 
大事なシーンを見てみましょう。かなり後半最後に近いところですけど,節子が栄養失調で死にかけてまして,清太が最後の貯金を下ろして,米や卵を買って来る。 節子のために卵と鶏肉の雑炊を作るシーンがあります。しかし,節子は雑炊を作ってる間に死んでしまうという悲しいシーンですね。これが雑炊です。雑炊が土鍋に入っていて,お茶碗があると。で茶碗の前にお箸が置かれていて,で,ここにスプーンの代わりの手作りっぽい貝が置いてあります。このスプーンは清太たちがおばさんの家で食べる時も使ってたから,持ち込みのものですね。 で節子が結局雑炊ができるのを待たずに死んでしまうという可哀想なお話なんですけど,しかし節子が死んで,清太が節子をもらってきた炭で火葬してる間,清太の住んでいた洞窟を,カメラはかなりはっきりと残酷に映すんですね。 で,それがこのシーンです。 2人の寝床があって,ドアの向こうから光が漏れてると。で手前のところにさっきの雑炊の土鍋が映ってるんですけど,分かりやすいようにちょっと強調してみました。ここにさっきのお箸とスプーンが突っ込んである。 つまり清太は雑炊を食べてるんですね。高畑監督はポイントポイントで,清太がどういう人間であって,今どういう風な気持ちなのかっていうのを分かるようにしてるんですね。これぼんやり見てると,その前にこの食べずに残ってある卵雑炊っていうのがあるから,普通の人は絶対にこれ食べてないと思うんですよね。でも清太は節子のお葬式の間にしっかり雑炊食べてるっていうのが分かります。で,わざわざ描かなくてもいい空になった食器を何故アニメーターにわざわざ指示して描かせるのか?この辺がもうこの人の意地悪なところなんですけども。 あと,その節子が食べられなかったスイカ,一口しか食べられなかったスイカの残りも,火葬してる時に出てくるんですけども,これもやっぱ清太は食べてるんですよね。いやそんなことはない。それはアリが食べたんだっていう風に言う人がいたんですけども,いや,違うと思って調べたら,ちゃんと清太が節子にスイカ分けてあげる時に,自分が持ってるナイフで1切れだけ切って「あとはここに置いとくな」って言って置いてるから,アリがたかったところでこういう形にはなるはずがないんですね。清太って,節子が死んだ後は,実は案外意識がはっきりして,食欲が湧いてご飯が食べてるのを,ちゃんと描いてるんですよ。 その辺でも,なんか人情だなと思ったのが,このスイカ,左端の一切れだけ身がついてました。 これ何かっていうと,清太がナイフで切り分けた一切れなんですけど,この山のてっぺんの1番甘いとこだけを節子にあげたんですね。そうすると節子の口の中にそれをなんとか入れて,節子は美味しいって一言言うんですけど,それはもう清太も食べられなかったんです。これはもう節子にあげたものだからって,ここら辺の人情も描いてる。
でも清太の生きるための欲っていうのかな,食欲みたいなものをはっきり描いちゃうっていうのが,その高畑勲のリアリズムだと思います。で,この辺は割と見逃されがちなんですけれども。コメントに「無理」って書かれてしまって(笑) こういう話しんどいですか? で清太は何故こういう風にしっかりしてるのかっていうと,割と節子はけなげなことを言うと泣くんですよね。 例えば「ウチ,おばちゃんに聞いてんねん。お母さんもう死んでお墓の中にいてるねんて」っていう風に言われると,もう清太はワンワン号泣するんですけども,ところが,いざ母が死んじゃうと,節子が死んでからの清太は全然泣かないんですね。例えばその一晩死体と添寝してあげる時も,目が無表情なまま寝てると。 遺体を火葬するシーンなんでも,清太の顔はわざと無表情に描いてるんですね。で,炎の照り返しの赤い光だけがチラチラしてるっていう,完全にその悲しみを描こうとするんではなくて,無表情を描いてると。 この無表情を描いてるのは一応それなりに理由があって。これは演技者が無表情でも,観客はその表情に勝手に悲しみとかを重ねて見てしまうという映像効果をクレショフ効果といいます。これはソ連以前のロシアの映像作家が見つけた効果なんですけども。 クレショフ効果でよく出てくる画像がこれです。無表情な男と子供の死体を並べて見せると,この男は悲しんでるように見える。無表情の男と湯気が立ってるスープを並べて見せると,この男は食欲に動かされてるように見える。 次に無表情な男と誘惑する女の写真を並べて見せると,この男は欲望を抱いてるように見えるっていう, 一般的にモンタージュ理論とも言われるんですけども,モンタージュていうのは映像編集するという意味なので,映像を編集してこのような心理効果を出すことをクレショフ効果っていう風に呼びます。で,宮崎駿は,このクレショフ効果が大嫌いで,そうじゃないと。 例えば宮崎駿が好きなのは,こういうヤツなんですよ。これラピュタのドーラばあさんなんですけども,あのドーラ婆さんが1人いました。「甘ったれてるんじゃないよ! そういうことは自分の力でやるもんだ!」っていう風にあのパズーを叱った後,「ん?その方が娘が言うことを聞くかもしれないね」っていう風に一人言を言うシーンなんですけども,これ,演技つけてるわけですね。キャラクターに演技つけて,ドーラがどんなキャラクターかすごい分かりやすくしてるんですよ。でも,高畑勲はこういう風にキャラクターに自分が思ってることを言わせて,それで観てる人間にこんな風に考えてるんだっていう風に分からせることが嫌なので,クレショフ効果を使って,その無表情な状態の清太を見せることによって悲しみを表現しようとするわけですね。で,何が言いたかったのかっていうとですね。清太が無表情な理由は,僕らが勝手にこのシーン見てワンワン泣いちゃったりするのは,この顔が悲しみを湛えてる…悲しみを抑えて一生懸命普通にしてるような,けなげな状態に見えるから,このシーンを見てすごい感動しちゃうんですけれども,そうじゃなくて,おそらくこの時の清太は人間性を失ってるんですね。人間性を失ってるから,妹が死んでも腹が減るし,雑炊食べるし,スイカも食べちゃうと。で,ああ,もう世話をしなくていいんだとほっとしてるから,安心してお腹が減っちゃうと。この「死んだからほっとした」っていうのは,原作者の野坂昭如自身が高畑勲との映画を作る前の対談で話して,「この部分を必ず入れてください。俺,そんな綺麗な人間じゃないんです。妹が死んだ時正直ほっとしたんです」っていう風なことを一生懸命訴えて,映画の中で使ってくださいって言って,高畑さんに約束させたっていう部分なんですけども。だから,妹を焼く時に炭を買いに行くんですけど,そのシーンも淡々と買いに行けるわけですね。 連合艦隊が沈んだと聞いた時には殴りかかるぐらい興奮したその清太が,妹を焼く時には,おじさんに「裸にして,豆殻と焼いたらよう燃えるわ」っていう風に言われた時に,心が全く動かなくなってる。 つまり,どんどん人間でなくなっちゃうわけですね。人間性が壊れていくところが,僕ら観客っていうのが,人間性が壊れた清太っていうのを見て,その代わりに人間性を取り戻して感情が動いて泣いてしまうという。こういうなんかすごいクロマチックというのかな,そういう構造でできてる映画なんですけど。
■ 何故こんなトラウマアニメを作ったのか
その なんだろうな,ちゃんと高畑さんは清太が人間性を失っていく過程も描くし,同時にお粥食べたりスイカ食べたりっていう証拠は出すんですけども,わざわざそこは表にガツガツガツガツ出さない。そこら辺はすごく上品な演出なんですね。なので普通の観方をしてると本当に分からなくなっちゃう時があるんですよね。じゃあ何故,人間性を失っていく過程っていうのをちゃんと描いてるんだけど,強調しないのかってことですね。パート2ですね。「何故こんなトラウマアニメを作ったのか」ですね。 
さっき話した通り,観客の僕らが泣くのは,実はこのクレショフ効果というのが大きいと。 つまり,映像の並べ方によって勝手にキャラクターが悲しんでる風に解釈しちゃって泣いちゃう部分が大きいんですけども,悲しくなるのは当たり前なんですよ。しかし高畑勲って実は観客を泣かせようと思って映画作ったことって1回もないんですよね。『母を訪ねて三千里』っていうアニメがあるんですけども,観たみんなが感動して日本中が泣いたと言われる作品なんですけども。 その『母と安全と三千里』の企画書の中でもう冒頭に高畑さんは我々。 お涙ちょうだいを作るつもりは全くないという風に書いててであの? でも,でもそれを見てる家族ってのは大体泣いちゃうんですよ。で,高畑さんってこういう時大体観客理解っていうのかを間違えちゃうんです。 で,究極の負けず嫌いだから絶対に自分の理論的な誤りを認めないんですよ。えとですね。『漫画映画の志』っていう,高畑さんに関する本があります。この中で高畑さんは
ー日本ではアニメーションは観客の心を掴んでハラハラドキドキさせる方法に進化したと。 そういうアニメは泣けるし感動できる。 しかし,私が作りたいのはそういうアニメではない。『火垂るの墓』の中で私は観客を完全に作品世界に没入させるのではなく,少し引いたところから我を忘れずに考えることができる視点で作った。 主人公を批判的にも見てもらいたいー
っていう風に書いてるんです。 つまり,『火垂るの墓』っていうのは高畑さんにしてみれば,観客が清太の気持ちになって感情的になって,どっぷり疲れるような映画ではなくて,それとは逆にやや俯瞰の,上から見下ろすような視点で見れるようにちゃんと作ってるっていう風にこの方の中で書いてるんですけども。 と同時に最近の宮崎駿に対する悪口も書いてあるんですよね。
ーかつての宮崎は,そういう上から俯瞰で同時に考えさせる,批判する視点で作れた。『カリオストロの城』を見てくれ。観客がみんな笑っ。 なんでかってカオスの後ろの中には多いよ。それなんだ言うと真がいくつもあるぞ。例えばそので2月,12月さんがこの水の中をこう覗くシーンで,あの全夜のと僕逆っと胃が欲しいとかですね。ルパンがちょっと無茶なジャンプする。 観客みんな笑う。それは何故かっていうと,観てるのが所戦アニメであって漫画であるってことを一瞬思い出すからだ。 こういう俯瞰で見させるということをかつての宮崎早ができた。しかしえ。 見てくれとあれの中にはいっぱい同じように変なシーンが出てきてキャラクターが変な動きするんだけど,もう映画館で誰も笑わない。宮は観客をハラハラドキドキさせ主観的にさせる,いわゆる作品の中に没入する方法を選んでしまった。でも僕はそうではなくて…
っていうのをですが,ガーンと書いてるんですけども。 お分かりでしょうか?あの,高畑勲ってそのつもりなんですよ。観客が理解できてないんですね。『 母を訪ねて…』を見ても,ちびっこやお母さんが泣かないと思ってるんですね。で泣いたという意見を聞いても,多分そういうのは少数派だろうと思っちゃうと。企画書読んだら「マルコは素直ではなく可愛気がなくて,とても感情移入できる少年ではない」って書いてるんですけども。 絵を舐めてるんですよ。あんな可愛く描いたら 可愛いに思うに決まってると(笑) そこが,自分で絵を描かない高畑は計算違いしちゃうんですね。絵の力で可愛く見えちゃうっていうことが全く想定外なんですよ。だから演出で全てが決まると思ってる。 『火垂るの墓』でも,その清太が人間性を失っていって,お粥とかスイカとかを,妹が死んだ後にガツガツ食べて無表情に抱くシーンも,あれも悲しんでるように見えるんですけど,高畑 のおそらく演出意図としては,死んじゃったので当惑してる,びっくりしてると。 取り返しのつかないことしちゃったなと思って後悔してるっていう風にも受け取られるようにちゃんと描いてるんですけれども,ところが僕らは勝手に演出効果で「やっぱすごい悲しみを抑えてるんだ,悲しすぎて泣けないんだ,悲しすぎてあんな表情になっちゃうんだ」っていう風に勝手に思い込んでワンワン泣いちゃうんですよね。  みんなもぶっちゃけ『火垂るの墓』に関しては泣くのに忙しくて,引いた視点でなんか観てないんですよ。でも僕みたいなサイコパス野郎だけが「妹のスイカと雑炊をきっちり食っとる…」と思って観てるわけですね。何故こんなに高畑勲の演出っていうのは伝わらないのかと。 だってぶっちゃけ世界一と言ってもいいぐらいの演出監督なんですよ。なのに何故こんな伝わらないのかっていうと,今回の特に今回の『火垂るの墓』っていう作品が文芸作品だからっていうのもあります。『仕事道楽』っていう,鈴木敏夫さんがジブリの面々のことを書いた本があるんですけども,この76ページです。 
ー宮崎駿がトトロを作ってる時に,『火垂るの墓』の話を聞いて宮崎駿が鈴木敏夫のところにやってきた。「鈴木さん!『火垂るの墓』は文芸なんです!」「まァそうですね」「俺も文芸をする!」という風に宮崎が言い出した。「え,どうするんですか?」と訊くと「猫バスなんて出してられないですよ。そんなもん出したら文芸作品じゃない。コマに乗って飛ぶ部分ももうやらない。コマに乗って空を飛ぶなんて馬鹿なことやってられないですよ」という風に言い出した。 鈴木は困り果てて高畑勲に相談に行って「宮崎さんがこんなこと言ってます」って言うと「困りましたね…猫バスってやめるんですか?もったいないですね」っていう風に言った。 で鈴木敏夫は宮崎駿のところまで走っていて「宮崎さん,高畑さんがもったいないって言ってますよ」って伝えると,宮崎が急にご機嫌になって「もったいないんですか?じゃあ猫バス出します」って言ったっていう。
これ実話なんですけども。すごいですよね。さっきのドーラと同じなんですよ。このドーラのシーンもですね,「2度とここへは帰れなくなるよ」っていう風にドーラが言って,ドーラが「覚悟の上だね」って言うとパズーが「うん」って強く答えると,ドーラが「40秒で支度しな」っていう風に言うんですよ。つまり,実はドーラはすごい良い人だっていうのが分かるように書いてる。これはエンタメであって文芸ではないんですね。 ちゃんとドーラがいい人だという風に分かるようにセリフが組んである。これエンターテイメントなんですよ。エンターテイメントというのが伝えるのが大事だから。でどんなキャラかっていうのは大事なんですね。 しかし,文芸の世界にはキャラという概念はないんですよ。何を考えてるのかわからない登場人物を読者一人 一人が「この人は何を考えてるんだろうか」と考えて,回答を出すのが文芸なんですね。高畑さんは『火垂るの墓』を文芸アニメとして作ってるから,一人一人が考えて違う答えを出すように作ってるわけですね。 なので,言っちゃえば,僕は「高畑勲は観客に甘えすぎ説」っていうのを唱えてるんですけども。 
…ちょっと45分なっちゃったんですけども,まだ半分も話してない。延長です。こんなもん(笑) 別にトラウマアニメを作るつもりはないですし,それどころか泣かせたり感動させるつもりもないんですよ。考えたり悩んだりして欲しい,映画について考えたり悩んだりして欲しいんですよ。何故節子は死ななければいけなかったのか?とか,何故おばさんは意地悪なのか?とか,何故清太は死んでしまうのか?ということを1人1人にも本当に毎晩考えたり,1年考えたりしてほしい。 もう泣いて思考停止するんじゃなくて,辛くてチャンネルを変えるでもなくて,何年もその言葉ばっかり考えて欲しくて,あんな苦労してアニメ作ってるわけですね。文芸とはそういう意味になっちゃった。高畑さんにとって。 だから高畑さんって,やっぱ観客に甘えすぎ。自分が作ったものが,何年も人を考えさせるだろうという風にうぬぼれすぎなところがあります。で,この辺りの「実は俺の作品には考える価値があるんだ,ほらこれ考えたいだろう?何故か知りたいだろう?」ってテクは押井守とか庵野秀明の方が何百倍もうまいんですよ。 正直言って中身は? なってるから本当にあるんですけども。 もう高ハードさんほどの馬鹿正直の中身はないんだけど,ただなんでだろうって考えさせるテクニックは,この2人はものすごくうまいのでですね。なんかその思ったようにならないんですね。 
■『火垂るの墓』の意味
ということで次はパート3です。「『火垂るの墓』の意味とは」です。『火垂るの墓』とはどういう風な意味なのかって,そもそもこの火垂るっていうのは,2人で暮らしだした時に,洞窟で清太と節子で暮らしだした時に,夜に上空に飛行機がブーンと飛んでる時に,飛行機の明りがチカチカ点滅してると。清太がそれを見て「特攻機や。これから敵国に特攻自殺攻撃をかける飛行機だ」っていうと,節子が「ホタルみたいやね」っていう風に言うんですね。このように最初からこの作品においてのホタルっていうのは,「死ぬ直前に最後の光を放つ存在」 と描かれてる。で,清太は節子のために100匹近いホタルを捕まえてきて,蚊帳の中に放つシーンです。 ホタルを放した後,ポーズがロングになるシーンがあるんですけど,これがもうすごい意地悪で。 蚊帳の中にホタルが飛んでるんですけど,ここの柱の梁がちょうど斜めになって遺影になってるんですね。いわゆる葬式の時に写す写真になってるんですけども。こういう風に,必ずホタルの光を出してる時は死を暗示させるような映像効果っていうか,見せ方してるんですよね。でこのホタルが飛ぶ蚊帳の中で清太は観艦式,お父さんが出た,日本海軍の連合艦隊がその艦隊を見せつける観艦式っていうのを思い出す。 夜の光に包まれた連合艦隊っていうのは実はこのお話のもう1年近く前に沈んでるんですよ。つまりこの作品の中で光るものっていうのは大体全て死んでるんですね。 特攻機とかホタルとか連合艦隊とか,全てそういう死にゆくものだから,光って美しいという描かれ方をしてると。 で翌朝清太が「何してんねん」って言うと節子が「お墓作ってんねん,お母ちゃんもお墓に入ってんのやろ?うちおばちゃんに聞いて,お母ちゃんもしにってお墓の中にいるねんて」っていう風に言うと,清太はもう号泣してしまうというこのシーンです。可哀想さに泣ける人も多いんだけども,そのかわいそうなシーンで何故こういう映像を映すのか? ですね。何故この大量のホタルの死骸を何故見せるのかというと,このホタルにとっては,この2人も無慈悲で不条理なものの存在なんですよ。もちろんホタルっていうのは光を放ち始めたら数日間で死ぬ運命なんですけども,だからといって自分の慰めのために蚊帳の中で閉じ込められて自由を奪われていいという理由にはならないんですね。「ホタル可哀想やから逃してあげよう」っていう発想は別に節子にもないわけなんですよ。で,この蚊帳の中でホタルが飛んでるシーンは冒頭ともリンクしてます。 この冒頭シーンですね。幽霊となった清太と節子が窓のフレームの向こうに東京大空襲を見ている。でこれがその神戸大空襲ですね。これが火垂るです。 火が垂れ落ちてくるから「火垂る」っていう風に,火が垂れると書いて「螢」と書くんですけども,これも,この2人が見てる見え方っていうのは,辛いね,悲しいね…ではなく,これもホタルなんですよね。だから命が燃えてて綺麗だね。っていう視点で見てですね。ホタルを蚊帳に放ちお墓を作る…美しくも残酷な遊びしてるんですけども,そういう人間から見た戦争,人間から見たこういう戦争のホタルの風景も,ホタルから見た自分たちを不条理に扱うこの兄弟も,等しく残酷で美しいという風に描いてるんですね。
■ 泣ける映画を作っている訳ではない
だから高畑勲は何回も何回も「このアニメを戦争反対がテーマではない,そんなことではない」という風にずっと言い続けてる。 じゃあテーマは何なのか? ですねえ,テーマは何なのかというのをパート4でやります。やっとパート4ですね。あの無料部分ここで終わりですので,もうちょっと待ってください。 
高畑勲って,「泣かせる映画が嫌なのと同じく戦争反対の映画も作るつもりはない」って,三鷹市の平和集会の公演でも言ってるんです。「戦争反対」って言う人もいるけども,そんなことはないと。この映画にそんな効果は全くない。何故かっていうと, どんなに辛いイメージを見せても「こんな辛い思いは絶対に嫌だ」と思ったところで「だから戦争はしないぞ」にはならないと。私は日本人っていうのはとことん知ってると。日本人っていうのは,というかあらゆる民族が「こんな辛い思いしないためにも軍事力が必要だ。こんなに辛い思いをしないためにも,すぐそこにある脅威に対して普通の国になろうよ」って言い出す。日本はそういう国だと。それが日本で,それが日本人であるっていう風に高畑勲は はっきりと何度も言ってると。 なので,公式見解では,「高畑勲が本作品で描こうとしたのは,困難に立ち向かい,逞しく生き抜く素晴らしい少年少女ではありません。 決して切り開くことができない戦争という状況の中で死ななければならない心優しい現代の若者の姿です。現代ではデジタル機器が発達,煩わしい社会生活から離れ,ある程度自分の世界にこることも可能になった。 そのような時代であればこそ清太の心情は分かりやすいのではないか。兄弟だけで小さな家族を作ろうとしてる清太に,社会的な繋がりを患らしく感じる現代の若者との類似的なつながりを見出してるということ。しかし,戦時中ではその社会的な繋がりを配して,兄弟だけで生きることは叶わなかった。そこに悲劇があるとも言えるのです」という風に高畑勲さんは言ってるわけですね。 
で,これね,どういうことかっていうと,実はあの冒頭のシーンで,野垂れ死にかけている清太におにぎりをあげてる人がいるんですよ。 つまりそんな時代,清太の主観どっぷりで浸かってみたら,もうみんな鬼ような人たちで誰1人助けてくれないという風に思うんですけども,ちゃんと頭を下げてお願いすれば,こんなご飯がない時代にも,何の見返りもなく,おにぎりをあげる人がいるんだよっていうのを一番最初に見せてるんですね。だからコイツがこうなったのは,戦争のせいでもなければ,時代のせいでもないんだよっていう風にはっきり高畑勲は,冒頭に言い訳ができないように,どんって見せた上で始めてるわけ。 なんかこう戦争が悪いとか貧しさが人の心を荒ませたという話ではないと。
あとそのテーマに関して僕が気になるのは,何故母親の霊は出てこないのかってことなんですよ。あれほど節子は母親に会いたがってたから,最後幽霊となって兄と逢うんだったら,そこに母親も霊になって出てきていいはずなんですよ。 で,あんなにお兄ちゃんあの清太が逢いたがってたお父さんも出てきていい話で。だってもう死んでるんだから。だから最後は親子4人また揃って,親子4人で桜の下で写真撮ってるシーンがあるんですよ。 だったらば死んでなんかこう…彼らには死ぬことしかなかったんですね。っていう話なんだったら,そこに母親出しても父親出してもいいはずなんですよ。
何故節子の幽霊だけなんでしょう? これが僕はこの本作品のテーマの1つだと思うので,えもう時間もないですけど,皆さんのコメントも自由回答ちょっと見ていこう。「生きてるから」いや生きてない。「 生きていた」それもない。 「死んでもぼっち」(笑)「何故気づかなかったんだ」そうですね。あんまりこれ気づかないですよね。つまり生活この2人の話見てるから。「親だけ成仏した」 「清太の食材…えぐい話だ」「清太も両親も引きこもり」…
じゃあ,僕の考える『火垂るの墓』,僕の妄想と言ってもいいんですけど,の方に行きます。 母親の行ったような天国に行けないと。だからといって地獄に落ちるようなことがないと。こういうのを,ダンテの煉獄という風に言います。煉獄っていうのは囚われる国っていうことなんですけども。 煉獄では天国に行けなかった人,行けなかったんだけど,地獄にも落ちなかった人の中間的なところで,  苦痛によって苦しいことによって罪を清められた後,天国に行く場所という風にカソリックではされています。で,清太は煉獄に閉じ込められたので,1988年現在,映画公開当時の現在でも未だに自分の過去の過ちと死んでいく妹を見せつけられると。 だから,この無限の苦悩を高畑さん自身分かってて「気の毒にも彼は繰り返すしかない」っていう理解できているんですよね。かなり冷たい描き方なんですけども,清太は精一杯生きたんだけども,あの自分の最後の苦しみっていうのをずっと見せられていて気の毒なんだけど,それはもう彼は繰り返すしかないんだっていう風に書いています。 最初から煉獄に閉じ込められた少年っていうのを冒頭から描いているんですね。だから冒頭の一番最初で三宮の駅の現在から始めたと。 でこのアニメの中で清太がまっすぐ観客を見つめるシーンが2箇所だけあるんですけども,これ一番最初の冒頭シーン。「昭和20年9月21日夜,僕は…」 っていうとこではっきりと観客を見ています。 でもう1つ,一番ラストのラストですね。 清太が「もう遅いからおやすみ」って言うと節子が「うんっていってもうこれ。両方とも幽霊なんですけど,節子が生徒の膝の上で膝の上で寝ると清太は1回観客の方まっすぐ。 見てから,神戸の町へ目を移すんですね。何を訴えてるのか?何故節子が起きた時に見ないのか?節子は起きてる時には,実は清太を見れない理由があるんですね。 これが後半で語る最大の謎解きです。実はこの理由が多分このアニメの中で1番怖いところだと思います。後半は清太を殺したのは誰か?時代のせいだ,清太のわがままのせいだとか,あのおばさんのせいだって色々説があるんですけども,じゃあ何故清太は死ななきゃいけなかったのかっていうのが,僕はこのアニメの一番怖いところだと思いましたね。そっちを語ってみたいと思います。
じゃあアンケート出してください。 前半1時間喋っちゃったな。 高畑勲っていう演出家が一筋縄で行かない感じが伝わりましたでしょうか?とにかく調べれば調べるほど高畑アニメって面白いんですよ。宮崎駿は天才だけど,高畑さんは怪物です。 ジブリのドキュメンタリー映画で『ジブリの夢と今日のジブリ』というのあるんですけど,あの中で高畑勲は,ほとんど出てこないんですよ。何故かって言うと宮崎駿はすぐに怒鳴って撮るなとかそんなくだらないもの作るなって怒るんですけども,何日か後に急に「これどう思います?」ていう風に話しかけてきて,その後になるんですけども。高畑は最初にノーと言ったら永遠にノーなんですよ。すごいこう困った人なんですけども。 
アンケート結果出してください。反響すごいな! 後半今のうちに言っときますけど,すごい怖い話なんで覚悟しといてください。よろしくお願いします。サロンは来週土曜日,東京でありますので,早朝の方でもしよろしければ参加ください。それでは後半行ってみましょう。はい…いや,もう笑いながらじゃないと怖い話できないよ。 
■ 高畑勲と宮崎駿
後半に入ります。 では「高畑勲と宮崎駿」ですね。パート5です。元々高畑勲『火垂るの墓』の企画原案は,戦争直後の元気な子供を書く予定でした。戦後,大人が皆ショボくれて戦争負けたと言ってぐちゃっとしてんのに,子供たちだけは生き生きとして走り回って靴磨きしたり泥棒する子もいたりして,とにかく生き生きと動いたとか,そういうのを描く予定だったんだけど,なかなか企画としてまとまらないと。すごく困った。 で,そこで鈴木が「前々から言っていたホタルの話にしませんか?」って言ったら高畑さんは「 あ,それいいかもしれませんね」って。 その戦後,戦争末期から戦後混乱期に,苦しんで飢えて貧乏でご飯食べれなくて死んじゃった子供の話って,高畑さんには元々構想はあった。高畑っていうのは方向性に1nmのブレもないんですよ。 一度やると決めたことっていうのは,もう死んでも手放さない動かさないですね。 で,ここでテーマは,戦後の元気な子供を描くというところから,どのような状況からでも,どのような圧倒的にもう生きようがないような状況からでも,自分の行きたいように生きることを貫くていう,そういうテーマに行き着いたんです。だから清太っていうのは,煉獄に落ちても,例え兄弟揃って餓死しようと,自分が生きたいように生きたっていう,少なくとも高畑さんにとってのハッピーエンドなんですね。 困難に立ち向かい逞しく生きた清太は,素晴らしい。決して綺麗に生きることができない戦争という状況で死ななければならない。そこに生きる人が自分の生き方を貫くハッピーエンドですね。その生き方が幼い妹を殺してしまうものだとしても,生き返って何度も同じことを繰り返すようなことであろうとも,高畑さんにとっては,それは自分の生き方を貫いたハッピーエンドであると。それが言い方が悪いんだとしたら,よくやった話,頑張った話なんですよ。ラストが悪いからといって,その人の生き方を否定するようなものではないって,まあなかなかその言葉だけ聞くと納得できるんですが。この映画『火垂るの墓』っていうのは高畑さんにとっては,あくまで生の肯定,生きることの肯定であって,まァジョジョと同じく人間讃歌なわけですね。自分らしさを貫く勝利の話であって,なので観客が「死んだからかわいそう」とか「戦争反対」っていうのはどうにもこうにも理解ができないと。 え?違うだろうと。それはなんかジョジョの中で,ジョジョの親友たちが勝つことを確信して「ジョジョのために…」と言って死んでいくのを見て「なんだ,所詮死んだんだから,あいつ負け犬だ」と言われるのが納得できないのと,同じように高畑勲にとってもそうだろうと。 いやいや,どこにジョジョ要素が?って,いやこういうジョジョの要素あるでしょ?高畑作品って?だから,この『火垂るの墓』観て,子供の語る「かわいそう」とか「戦争反対」っていうのは高畑さんにとっては理解できないと。
では,高畑さんの一番の理解者はどう考えてるのか?一番の理解者って宮崎駿なんですね。もちろんおそらく『火垂るの墓』に一番ショック受けたのは宮崎駿です。で,この作品に答えるべくこの今言ったテーマ…「困難な状況,もう負けるしかない状況の中でも自分の生き方を貫いて,最後まで行けた」っていうものを受け止めて,「自分のやりたいことのために最愛の人が死んでもやめず,最後は煉獄に閉じ込まれる男」っていう,全く同じものを描いた。 それが『風立ちぬ』という映画なんですね。この映画の中では,堀越次郎という男が,自分がやりたいことを貫く,それも美しいものを見たいっていうことを貫くために,一番好きな女の子,結婚した奥さんが死んじゃっても,日本が負けても,それでも飛行機を作ることをやめなかった。 で最後に煉獄に閉じ込められて,ずっと同じ世界の中で生きてるという状態を描いたんですけども。ここで鈴木敏夫さんが『Rockinon』のインタビューで答えた記事ですけど,宮崎駿さんの考えた『風たちぬ』の最後って違ってたんですよ。 
ー3人とも死んでるんです。 で,それで最後に「生きて」って言うでしょ。あれは違ってて,最初「来て」って言われた。これ悩んだんですよ。つまりカプローニと堀越次郎はもう死んでいて煉獄にいる。そこで「来て」っていう風に奥さんが言ってくる。カプロー二は「来て」って言われて,天国に行くんじゃなくて「美味しいワインがあるんだ。それを飲んでから行け」と言うのがラスト。 つまり,男2人はベアトリーチェが来てようやっと煉獄から天国へ解放されて,天国へ連れてくれようとする時に「ちょっと待ってくれ,もう1杯ワイン飲んで自分たちが作った飛行機見てたら行くか」っていうすごい話にするつもりだったんです。で,それをカットしたおかげで多分感動できるヒット作になった。 でも宮崎駿は1人で紡ぎ出した,その「来て」って言われた時に「ワインがあるから,もうちょっと俺たちこの煉獄にいるよ」っていうラストの方が良かった気がする。なんか僕は今だにそのことを悩んでるんだよー
と鈴木敏夫さんは言ってます。未だに自分の判断に迷いがあると。つまり1988年に『火垂るの墓』を観て25年かけて書いた返事が,2013年の『風立ちぬ』って映画。ずっと宮崎駿はものすごい衝撃受けて「 高橋さんがこれ出したんだったら,俺も嘘ついてられない」っていう風なことで,ただ単に美しいものが好きで,周りの人間に迷惑をかけてっていう自分の生き様を貫く様を,ハッピーエンドではないんだけども,勝利として描いてしまうというのを出したと。 「ついに俺は,煉獄に行くまで美しいものを貫いた男を描いた,高畑勲を超えた,さあ,引退だ」と思った。なので『風たちぬ』作った時にもう俺は高畑勲を超えたと思って引退しちゃうんですね。何故かというと,宮崎駿にしてみたら,「俺はもう知ってるぞ,みんな気がつかないかもわかんないけど,高畑さんの映画観て俺は分かる,何故母親の遺骨は洞穴の中に残したままだったのか? あんな大事なはずの母親の遺骨を残したままで,妹の骨だけをドロップ缶の中に入れて,何故持ち歩いたのか?それは分かってるよ,だって母親の死に方が美しくなかったから。 自分の言う通りに生きて衰弱して死んでくれた妹の死は美しいから手元に残したんだ。そこまで高畑さんは描いた,すごい。でも俺の書いた堀越次郎は自分の最愛の,結核の奈緒子の横でタバコを吸って,自分が醜く病み衰える姿を見せたくないという理由で,奈緒子に自主的に病死をまずさせた。ここまでの映画は高畑は作れない。勝った」と思ったんですよ。ところが無慈悲にも高畑勲は『かぐや姫』 の物語を作っちゃったんですよね。 かぐや姫でその姫が十二単を脱いでバーっと野原を走るシーンていうののコンテ見た宮崎駿は,自分も走り回って喜んだそうなんですよ。「 これ『アルプスの少女ハイジ』だ。フランクフルト帰って来ると聞いたハイジが,次から次の服を脱いで山を登ってくシーン…そうか高畑勲は今から『アルプスの少女ハイジ』やるんだ。すごい。さすが高畑勲! あの高畑さんが帰ってきた」って言って本当に大喜びしたんですよね。だから高畑勲はあれ見たら引退撤回するしかないんです。 
■ 押井守の指摘
ということですね。ここまで引くとまァ友情なのか何なのか分かんないですね。いい話なんですけども,あの男が黙ってません。 ってことでパート6「押井守」ですね。 押井守は,この『誰も語らなかったジブリ』の中でまあまあえぐいこと書いてます。「今の子供たちを書きたいというのは建前でしょ,死とエロスを書きたいだけでしょう」という風に言ってます。 いちいち別に引用して読んだりしなくてもいいんですけども。 
ー高畑さんは「この兄に今時の忍耐力のない子供たちを投影してみた」なんて言ってるけど,それが本心とは全く思えない。僕はアリバイにすぎないと考えてる。なぜなら『火垂るの墓』は100%作家の映画で高畑さんは自分のやりたいことしかやってない。それにを全倒するため,公開日に間に合わなくてもそのまま未完成の作品を上映。 つまり,そこまで自分の表現に
執着した。 じゃあ,高畑さんは何を書きたかったんですか?って聞かれると「死とエロス,死生観ですよ」と。あれは高畑勲の死生観。映画監督が一度は自分の作品の中で追求するテーマです。どんなアリバイと,どんな嘘を並べても,間違いなく高畑映画監督の作家主義100%の作品です。で,その死生観,死の他の生/性っていうことはエロス。 これは微妙に性になってる。だから死とエロスになるわけで,そのエロスとは何かといえば近親相姦になると。 あの兄弟の関係は明らかに近親相姦でしょう。見る人が見たら相当に気持ち悪い映画だよ。 迫力があるから通り一片に書いてたら,そういう推理は絶対に生まれない。 高畑さんの演出家としての緻密な計算があり,表現に執念が漂ってるからこそ,あの性の匂いがプンプンするし,近親相姦の匂いもプンプンする…
という風にですねで,これはですね。僕は押井守がすごいキツいところバシッとど真ん中ついちゃったなって思ってるんですけども。 実は清太と節子の関係が近親相姦に近いというのは,原作者の対談でも語られてると。 ですけども,まあもっと具体的に映像で見ていきましょう。 明らかになっちゃったのが,その節子が死んだ後の回想シーンみたいなところがあるんですね。例えば近親相姦で分かりやすいのでいうと,節子が裸でシーツをかぶって走り回ってるシーンというのを見せてんですけども。 このシーン何かっていうと,実は存在してないシーンなんですね。 一切画面上に清太が出てないというか,節子は誰にも見られてないので,1人きりで遊んでると。これやってるんですけど,これ変なんですよ。ていうのは,この映画は冒頭一番最初のシーンから最後の最後までこのシーン以外,この一連のカット以外は,全て清太の見た目だけ,清太が経験したことだけで描かれてるんですよ。だから清太が登場しないとか,清太の見た目が登場してないシーンは1カットもないんですね。なので,この清太が見てないものは存在しないはずなんですけども,いわゆる破れ傘を節子が遊ぶシーンとか,洗面器を被って敬礼みたいなものをするシーンとか,これポスターにもなってて,すごい有名らしいんですね。これ,実は節子はやってないんですね。 節子が死んだ後,清太が妄想している節子がやってるだけなんですよ。この映画の中では繰り返しますけども,清太が見てないものが1つも出てないと。じゃあこのさっき言った,こういう風なシーンは何なのか?というと清太が覗いていたという風に今コメントあったけど,そこまでじゃないんですね。そうではなくて覗いてたのではなくて,清太の妄想の中なんです。その妄想の中と分かるのがこのシーンですね。 節子が,清太がいない時に針仕事をして,針が指に刺さって,血が出て吸うシーンです。 で,これを見てですね。あの に行ってるのですね。あの金曜ロードショーの時には「節子ちゃん4歳で針仕事できるんだ。偉いな」っていう人がいるんですけども,よく考えてください。節子はそんなことできない。 海軍将校の娘ですから針仕事なんかできないし,そもそもそれまでのシーンに一切そんな伏線なかったでしょ?これ何なのかっていうと「節子は自分の妹であり,恋人であり,母親である」という清太の願望のシーンなんですね。だから節子はまるで母親のように正座して母親の縫い物してるんです。できるはずがないのに,これを見せてるのが清太の妄想だった。はっきりわかるように高畑さんはそれまで一切に針仕事してないから,このシーンをどんと出してるわけです。 だからなんかこのシーンで泣く人が多いのが多分高畑監督にとってよくわかんない。 「節子ちゃん健気…」って,こんなことするはずないでしょ。それは皆さん節子散々見たから知ってるはず。 節子って割と文句しか言わないし甘えるばっかりでそんなことしませんよっていうのは高畑さんちゃんと書いてるつもりなんですよ。だから,ここで清太が持っている妄想を出すことによって,この兄弟の関係っていうのをはっきりさせたつもりなんですけど,大体観る人は,涙で曇って観えなくなっちゃってるわけですね。監督は仕掛けに気づくはずだと思ってるんですけども,なんかその辺の計算っていうのは狂いがちなんです。そんなの分かるはずがないんですよ。だから節子は母の代わりになったというシーンでこれ出してるんですけども,清太の妄想が分かりにくい。 だから野坂昭如が同じようにその高畑さんとの対談で「あの妹は恋人で母でもあるんです」って発言を,一生懸命真面目に映像化したらこういう風になるわけですね。 
■ 死は美しく,生は醜い
やっとパート7ですね。 「死は美しく,生は醜い」って話です。 このシーン。見たくないでしょうけど,大怪我したお母さん,もう死んじゃったお母さんに蛆がいっぱい湧いて体の上を這い動いてます。これ見た時は僕ショックでした。本当に包帯と言えば『魁!!男塾』ですから,包帯巻いたら何でもって治るもんだという記号で見るぐらいだったんですけど,この話を見て初めて,ああ,なんか包帯っていうのは絶望というシーンでも使えるんだなという風に思ったんですけども。 これ生き延びようとした母親っていうのは,醜くく死んでしまったという意味なんですね。担架で運ばれてる時に清太は一切触らないですよね。見てるだけ眺めてるだけで,帰りに骨拾ったんですけども,清太は自分の母が死んで運ばれてる時に担架の端を持ったりもしないし,よくアニメとか漫画であるように抱きついたりもしないんです。ただ遠目で見てなんかこう無表情なだけなんですね。で,それに比べて節子が死んだ時に清太は一緒に寝てあげるぐらいの情が湧いてるんですね。お母さんが死んだ時には,すごく冷たく離れたところにいたんですけども,節子が死んだら,どんな病気があるかわかんないですけど,添寝して抱きしめて寝てあげるぐらい優しい。 で,これは何かって言うと,その死ぬことに抵抗した母親,生きることにこだわった母親は醜くく,子供だけども死ぬことに抵抗しなかった妹はこんなに美しく死んでくれたと。だから添寝できるほどに美しい。で,なんでその妹を火葬したのか?次の日すぐに焼いちゃったのか?っていうと,母親のように醜くくなる前に,蛆が湧いて見にくくなる前に焼いてあげたい。だから,母親の骨は最後洞穴の中に捨てていく,別に持ったりしない。そうじゃなくて妹の骨だけ持ち歩く。これがその清太の持ってるエロチシズムみたいなものと,あと死は美,生性は醜いっていう,今回の作品のすごいなんか難しいテーマなんですけども。その辺描いた作品が,フランスで1952年に作られた映画『禁じられた遊び』っていうのがあります。これ,あのタイトルだけ知ってる人が多い。あと音楽だけ知ってる人が多いんですけど,死とエロスを描いた映画です。どんな映画かっていうと,ポーレットっていうのが4歳ぐらい女の子です。死というものがまだよくわからず,神への信仰や祈り方も知らない,当時1940年代ぐらいのパリですから,いわゆる宗教がやや低調で,自由主義とか民主主義,科学主義があった時代ですね。だからポーレットって,女の子は実は神様の意味も知らずに宗教も知らなかったと。それに対して10歳ぐらいの田舎の男の子ミシェルは「死んだものを墓を作るんだよ」と教えられて,可愛がってた子犬の死体を人のいない水車小屋に埋葬し,祈りを捧げると。愛犬が1人ぼちでかわそうだと思ったポーレットは,もっとたくさんのお墓を作ってやりたいと言い出すと,ミシェルという男の子は,その願いに答えてやりたくなり,モグラやヒヨコなど色々な様々な生き物の死体を集めて,次々に墓を作って二人の墓を作る遊びはエスカレートし,ついに十字架を盗んで,自分たちの墓に使おうと思い立つという,かなりすごい映画なんですよ。で,この4歳ぐらいのポレット女の子と10歳ぐらいのミシェルって男の子の関係がめちゃくちゃエロいんですね。ポーレットって女の子がミシェルに「死体とか十字架をもっと持ってきてくれたらキスしてあげるよ」っていう風に言うシーンがあるんですけども,まあそこらのアニメよりも本当にずっと過激なんですよ。 
ただ,こういう近親相姦とか,こういう死を美しいものとして扱って生を醜いものとして扱うシーンよりも,もっと怖いなと思ったのが,最後に近いところなんですけども火葬のシーンなんですね。 このモンタージュです。 もうほとんど燃えてしまった節子の骨を前にして名前もかじる清太。 で,このシーンとダブらせで,そのまま編集でサクマドロップの缶を持っている,つまり骨の入った缶を持っている清太にこの画面がスライド入ります。「翌朝,僕は蠟石のかけらのような節子の骨をドロップの缶に収めて山を降り,そのまま号へと戻らなかった」。実は本編で,サクマドロップというドロップの空き缶の中に骨が入ってるっていうのをはっきり分かるこのシーンからなんです。それが節子のものだって分かるのはこのシーンからなんですけども。で「兄ちゃん」て,この後呼びかけられて,節子が亡霊となって現れて節子に自分の骨が入ったドロップの間を渡すと。 そうすると映画を見てた人はああ,この冒頭からこのドロップ感に入っていて,2人がペロペロと食べてたのは節子の骨だったんだっていうのが分かるんですね。もちろん映像では高畑さんはドロップとして書くんですよ。高畑さんはそれを骨をかじるみたいな生な表現はしないんですよ。庵野秀明なら絶対やったと思うんですけども,高畑勲はそこをドロップとして書くんですね。でも書いてることはこの構図から明らかなように,カニバリズムいわゆる人肉食いなんですよ。本当に愛してるからその死体を食べたいっていう欲求であって,母親の死体は食べれなかった。食べるに値しないんだけども,妹の死体は食べることができる。だから2人でその骨をドロップにして抽象的にして分け合っていつも分けて食べるっていうシーンを何回も何回も繰り返して入れてるわけなんですよね。 
暗喩してるのが言うまでもカニマリズムなんですけど,これまた原作の野坂昭如が自分自身で『火垂るの墓』がヒットした時に本当に悔しそうに言ってるのが,「高畑さんとの対談で「実は自分の妹の太ももに食欲を感じたこともある」っていう風に話したことまで,全部映像化されてしまってる」っていう風に語ってるんですけども。こういうカニバリズムというところまで入っているというのが『火垂るの墓』のえぐいところだなと思うんですけども。これあのすいません,1000倍怖いではないです。
■ 100倍怖い『火垂るの墓』
前半の100倍怖いじゃなくて,ではこれから最終パート,パート8です。「100倍怖い『火垂るの墓』」の方に入ります。 清太を殺したのは誰か?って話なんですけども。 もう笑いながら話しますね。まず節子を殺したのは誰か。 おばさん説,つまりあの意地悪のおばさんがいじめるから,なんか外へ出て死んじゃったって人がいました。でもこれ反論として,おばさんも実は白いご飯ろくに食べてないんですね。ほとんど清太と節子と同じようなものを食べて「うちでは働けへんもんは食べられへんのです」っていう風に言ってるので,そんな悪くないような気がするし,何より清太が働いてないのが悪いっていう反論も成り立つ。 で,まあ次は清太説ですね。節子が死んだのは清太が原因だと。つまり清太が自分自身に意地を張っていわゆる社会性がなかったから,コミュ障だから死んじゃったんだという説があるんですけど,それは反論として,清太が節子に与えようとしたのは,栄養とかそういうもんではないと。人はパンのみに生きるのではないと。節子が一番欲しがっていた,これまでと同じ家族の絆,温かい家族との関わり合い,触れ合いだ。それを与えようとしてたから,結果的に働けなかった,外に行けなかったんだと言う人がいます。これも納得できる。つまりおばさん説にも清太説にもそれぞれ反論があって納得できると。
じゃあその清太を殺したのは誰かっていうのは,ある程度不可抗力として,ああ,でもしょうがなかったんだと言えるんですけども,ラストで清太が死ぬのはなぜか?…まぁラストとか冒頭なんですけど…だって清太はまだ貯金があったんですよ。清太だけだったら生きられるはずなんですね。主人公の清太だけだったら,もう14歳だから,しかもまだ300円の貯金がある。今のお金で言えば4500万円ぐらいの貯金あるから生きられるはずだったんだけども,なんでか?と。罪悪感で死んだっていう人もいるし,節子のそばに行くっていうロマンチックに考える人もいるんですけども。 僕が思うのは,清太が死んだのはま予定調和って言い方変なんですけども,野坂昭如と高畑勲の対談でもう冒頭から2人がお互いを確認し合ってるのが,この話は心中物だって言ってるんですね。 心中っていうのは,2人で一緒に手に手を取り合って死のうという心中ものです。で,犯人を作らずに特定の悪い犯人を作らずに全ての要素が死ぬしかないっていう状況に持っていかれると。で死ぬことで2人は永遠に結ばれると,これが心中もののコンセプトです。 なので江戸時代に心中ものの人形浄瑠璃とかそういうのが流行ったら,もうそこら中,町中で後追い心中が多発した。これは江戸時代の助六心中って言われる事件の瓦版なんですけども,こういうことがあまりに多かったのですね。幕府は心中禁止ですね。心中とかしたら厳しい罰あるよ。心中を書いた瓦版でも「心中の河版出したら厳しく罰されるよ」という風に言わざるを得ないほど,心中が大流行りに流行ってしまったと。で心中を扱った瓦版はすぐに没収で焼き捨てられて,これは1704〜1711年ぐらいに大阪で実際に起こった助六心中の時の瓦版なんですけども。
ところが現代の観客には,死んで結ばれるという価値観はない。 どっちかっていうと,死んだらおしまいって考える人が多いんですよ。死んだらどうにもならないと。だから,『火垂るの墓』を観ても,当たり前だけども,誰も心中する気にはならないです。死んだらおしまいじゃんっていう風に考えているので。ところが野坂昭如も高畑勲も,これは心中ものだと考えてるから,だから清太を殺したのは節子っていうことになってくるんですよ。お互いってことになってくるんですよ。だから節子は,清太が「貯金下ろしてきて食いもの買うてくる」と言っても「兄ちゃん行かんとって,ここにおって」って訴えるんですね。で,それを僕らは節子が寂しいからだっていう風に受け止めるからすごく泣くんですよ。ところが高畑が描いてるのは「こうやったらお前が助かるんだ」と言っても「死んでもいいからここにいてくれ」っていうアピールしてるんですね。で,僕らは「節子というのは幼くて4歳でまだ道理が分からないからだ」と勝手に解釈してるけども,完全に心中もののフォーマット出てると。だから,清太はあの時に,買いに行くべき間,残って節子が死ぬまで一緒に看るべきかっていうところで,激しく悩むシーンがあるのはそのせいなんですね。で節子は同時に,清太を甘えたり,もしくは遊んでって言ったり,病気をしたりすることによって縛り付けて,隣組とか労働奉仕に行かせないんですね。 それによって自分が死んでも構わないと。で清太も節子の誘惑につい負けてしまい,一緒に餓死への道を向かってしまう。ところが節子が先に死んじゃったら,清太はそこで生きる欲求というものが,もう1回起き上がっちゃったんですね。 「ちょっとホッとした…せな…」という風なことで,だから急に食欲が湧いてご飯を食べるシーンていうのがある。
もちろん,節子は死んで母親に会いたかったから死を急いだという考え方もあるかもしれないし,清太だって…っていう風に考えることもあるかもわかんないんだけども,清太は生きられるはずだったんですよね。なのに節子に取り殺されたって言ったら何ですけども,そういう状態だという風に僕は考えてます。 だから,だからなんですよ。冒頭のシーン。本当に冒頭の1分ぐらいに,この話全て入ってるんですよ。 一番最初,僕は死んだっていうところから始まって,亡霊の自分が自分を見てる。 僕が死にかけていると。で死んじゃって駅員さんがドロップの空缶放り投げたら,そん中から節子の骨が出てくる。 で,最初に出てくるのは節子の亡霊なんですね。 これ見て分かるとおり,節子の亡霊が出てきて,その節子の亡霊が死んだ兄ちゃんを見てるんですよ。 で,節子はその死んだ兄ちゃんのところ行こうとなんとか踏み出したら,後ろからはっと肩を掴まれて振り返るとお兄ちゃんが笑っていて安心して節子は手をつないで,そのまま画面の左へ消えていってタイトルが出る。 これどういう意味かっていうと,節子はお兄ちゃんが本当に来るかどうか見張ってるんですね。 本当に死んでくれるかどうか見張ってるんです。 節子はお兄ちゃんが本当に死んでくれるかどうか見張ってると。で走って,清太が死んだかどうか確認しようとしたら,後ろから大丈夫って言って止められてると。何故か。実はこれ心中ものだからです。心中ものが流行った時に,同時にものすごく流行ったもので怪談というフォーマットがあります。それまで日本の文学文芸の歴史で怖い話みたいなものはあったんですけども,恨みつらみによる怪談っていうのはほとんどなかったんですね。もちろん平家の恨み,武士の恨みみたいなもの,天皇の恨みっていうストーリーはあったんですけども,個人の愛欲の恨みみたいなものがお話してほとんどなかった。ところがこういう怪談ものが心中ものと一緒に流行った。 じゃあどういう話かっていうと,そのほとんど全てが心中しようとして男が死に切れず,女だけが死んでしまい,男がまだ生きてるのに対して女が化けて出て男を取り殺して…っていう話ばっかりなんです。 なので約束したのにお前は死んでくれないのか?っていう話で女が監視してるってのは心中信もので一番出てくるフォーマットだから,節子はここで清太が本当に死んでくれるかどうかをずっと待ってるんですね。 
で,約束通り死んでくれたかどうか。だから死を美しく書くことなんですけど,本当言えば,清太も,節子の遺骨をサクマドロップの缶に入ってたものを捨ててりゃ良かったんですよ。 お母さんの遺骨を捨ててきたのと同じように,節子の遺骨も捨ててくれば取り殺されることもなくて,そのまま生きてられたと思うんですけども,でもついつい自分の言う通りに死んでくれて,その死様が美しかった妹っていうのに,一瞬性の欲望が起こったんですけども,生きると欲望起こったけれど,結局遺骨をずっと持ち続けてしまったゆえに,その持っているサクマドロップの缶の中の骨に呪われたように,清太は恵んでくれたおにぎりを食べることもなく,衰弱して死んでしまう。それをずーっと待っていた節子は,ようやっとお兄ちゃんと走って行こうとした。「お兄ちゃん…」「大丈夫ここにいるよ,2人はこれからずっと一緒だね」って言って終わるっていうのを冒頭に見せてるんです。 それを映画の頭に見せる。だからわかるはずでしょっていう高畑勲の声が聞こえるようですよ。 あー,恐ろしい。心中物っていうものは,死を美しく書くことが目的です。精一杯死を美しく書いてやろうという風に思ってます。だから高畑が描きたかったのは美しい死の輝きなんです。 美しく生きる輝きってのは宮崎駿はどうせ書くんですよ。それもセリフにしてガンガン言いながら。そうじゃなくて,死は美しいっていう芸術家にしか言えないこと,文芸でしか言えないことを言ったのが高畑勲なんですね。だからホタルと同じなんですよ。命が限られていて今死ぬから精一杯生き, 翌朝には死骸で転がってると。その儚さこそが美しいって考え方です。でも僕ら観客は,高畑勲ほどじゃない。岡田斗司夫ほど,皆さんもじゃないですよね。なので観てると,こんなかわそうな感じで話を観てると悲しいし,腹が立つから犯人探しするんですよ。でも高畑勲はそういう気持ちがわかんないです。犯人探して清太が悪い,戦争が悪いとか犯人探してると。高畑勲はそんな気持ちが分かんないと。 だから清太もおばさんも戦争も悪くないっていう風に書いてね。 ね?美しいでしょ?と。滅びる様は美しいと。それは大空襲で人や家が燃えていくのも,ホタルが最後の光で燃えてくのも,この若い2人が自分の命を燃やし尽くして消えてく様も美しいでしょうっていう風に書いちゃうんですね。なのでもう観客っていうのは永遠に混乱して,永遠に論争することになっちゃう。多分次回金曜ロードショーがあったら,Twitter荒れるんじゃないかなっていう風に思うんですけれどもですね。以上,高畑勲の 『火垂るの墓』に対する動画はこれで終わりたいと思います。 
えっとですね,こないだオフ会があった時の感想なんですけども。大阪のオフ会の時にですね,「 フランダースの犬は許せる,最後死んでもパトラッシュとネロは天国連れてってもらえるじゃないか,満足して死んでる,でも『火垂るの墓』って,何1ついいことがない」っていう人がいたと思えば,最近カレー屋を始めたお姉さんが「いやあれは全然泣かないよ,よくやったよ,あの清太の周りに同じような男の子に死んでたじゃん,駅で同じようにのたれ死んでたじゃん,あんな死に方した人当時でもいっぱいいただろうにお前はよくやった,結果ダメだとしても,そこまで頑張って死んだんだから本毛だろう」っていう風にいたんですけども,多分まあ高畑さんの意図に割と近い見方と思うんですけども,なかなかそんな風に見れる人いないと思います。 …

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日本では観られない『火垂るの墓』 世界から“反戦映画”として最高の褒め言葉を受ける
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9/28(土) 21:25配信
2024年9月16日より、高畑勲監督作品『火垂るの墓』が世界190以上の国と地域で配信がスタートしました。残念ながらまだ日本では配信が解禁されていませんが、海外でこの作品はどのように評価されているのでしょうか?
例えばアメリカを代表する著名な映画評論家ロジャー・イーバートさんは、「『火垂るの墓』は、アニメーションの見直しを迫るほど強力な感動体験だ。(中略)これまでに作られた戦争映画の傑作のリストに、必ず加えられるべき作品である」と絶賛していますし、The Cinephile Fixというサイトでは、「はっきり言おう。高畑勲監督、スタジオジブリ制作の『火垂るの墓』は、史上最高のアニメーション映画である。実写映画も含め、映画史上最も心に響く、胸を引き裂かれるような悲劇的な物語である」と最大級の賛辞を送っています。
特に多くの評論家が指摘しているのが、徹底したリアリズム描写です。「野坂昭如の第二次世界大戦末期の物語を原作とする『火垂るの墓』は、主にアニメーションを使用して、悲惨なリアリズムを強調している」(Newyork Times)、「説得力のあるリアリズムと日常の重要性をしっかりと把握した描写により、節子の肉体的・精神的な崩壊を描いている」(SLANT Magazine)など、宮崎駿監督がファンタジーへの想像力の翼をはためかせているのに対して、高畑勲はあくまで自然主義的なタッチであることに注目しています。また、ディズニー映画と比較する論調も多く見受けられます。「ムファサの死(筆者注:『ライオン・キング』)やバンビの母親を失う場面がつらすぎて、見るに耐えないと思ったとしても、それは真の悲しみを理解していないということだ」(The Cinephile Fix)、「『バンビ』や『カールじいさんの空飛ぶ家』がアニメーション映画としてこれ以上ないほど感動的だと思っていたなら、この日本映画の傑作をぜひ見て欲しい」(The Gurdian)。
『火垂るの墓』のリアリズム描写とディズニー作品のデフォルメされたCG表現を比較して、「高畑監督はディズニーと競っているわけではない。ハリウッドのアニメ作品では決して見られないような表現を追求することで、このジャンルを成長させている」(REELVIEWS)と論じている評論家もいます。特にアメリカでは、いかに高畑勲監督の演出手法がワン・アンド・オンリーであるかが伝わります。そして、『火垂るの墓』が反戦映画であることに異議を唱える評論家はほとんどいません。思えば、クリストファー・ノーラン監督による最優秀アカデミー作品受賞作『オッペンハイマー』は、原爆投下後の広島と長崎の惨状についての具体的な描写がいっさいないことに対して、日本のみならずアメリカでも批判が巻き起こりました。「反戦映画だ」「いや、反戦映画ではない」という議論がSNSで交わされたのです。一方で『火垂るの墓』が描くのは、太平洋戦後直後を舞台に、ある兄妹が空襲をどのように生き延び、どのような末路を迎えたかという、非常にミニマルな物語です。「親も家も失い、飢えと米軍の爆撃、そして大人の身勝手な無関心に苦しめられながら、放浪を余儀なくされる。しかし、苦悩と絶望だけではない。自然の美しさや子供らしい喜びの瞬間もある。それだけに悲劇がより一層胸に迫る」とThe Gurdianが記した通り、彼らの旅路にフォーカスを当てたからこそ、観る者の心を大きく揺り動したのでしょう。市井の人びとを丁寧に描くことで、たぐいまれな反戦映画となったのです。
アメリカの映画レビューサイト「Rotten Tomatoes」には、プロの批評家による評価のトマトメーターと、一般ユーザーによる評価のオーディエンススコアのふたつがありますが、『火垂るの墓』はそれぞれ100%と95%という高評価をマークしています。ここに書かれた、あるオーディエンスのレビューが、ある意味で『火垂るの墓』という作品の本質を端的に言い表しているかもしれません。
「素晴らしい映画だ。もう二度と見たくない」(Good, great, amazing movie. Never watching again)
それは、二度と戦争の惨劇を目にしたくないという、反戦映画として最高の褒め言葉ではないでしょうか。
竹島ルイ

Yahoo!ニュース
https://news.yahoo.co.jp/articles/5644bff9b4f6961e5262e2b99e65d446f350a1d2
https://news.yahoo.co.jp/articles/bb0411b1321dfc3c4136f0f8c2730649f9a64b4c