[東京湯島] 湯島の白梅

■湯島の白梅
作詞:佐伯孝夫、作曲:清水保雄、唄:小畑 実・藤原亮子
   湯島通れば 想い出す
   ・・・
   出れば本郷 切通(きりどお)し
   あかぬ別れの 中空(なかぞら)に
   鐘は墨絵の 上野山
文豪・泉鏡花が明治40年(1907)元旦から4か月間、『やまと新聞』に連載した小説
『婦系図(おんなけいず)』
をテーマとした歌。
歌自体は、昭和17年(1942)7月公開の
東宝映画『婦系図』(マキノ正博監督)
の主題歌として作られました。
『婦系図』は、尾崎紅葉の『金色夜叉』、徳富蘆花の『不如帰(ほととぎす)』とともに、明治の三大メロドラマともいうべき作品で、大ベストセラーになりました。3つとも、人口に膾炙(かいしゃ)した名ゼリフが含まれていることで有名です。
『金色夜叉』では、熱海の海岸での貫一のセリフ、『不如帰』では、逗子(ずし)の海岸で浪子が夫・武男にいう
「なおりますわ、きっとなおりますわ、――あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう! 生きたいわ! 千年も万年も生きたいわ!」
というセリフ。
『婦系図』では、東京本郷の湯島天神社頭で、早瀬主税がお蔦と交わす次のセリフ。
「早瀬 月は晴れても心は暗闇だ。
………お蔦 切れるの別れるのって、そんな事は芸者の時に云うものよ。……私にゃ死ねと云って下さい」
これらの名セリフは、かつてのラジオ時代には漫才のネタとして盛んに使われました。
私も、子ども時代に3つともラジオで覚えました。
のちに(たぶん高校のころ)『婦系図』の原作を読んだとき、このセリフや場面がなかったので、不思議に思った記憶があります。
そのときは、たぶん芝居か映画にした際に付け加えられものだろう、と思っていました。
今回調べてみたところ、まさにそのとおりで、明治41年(1908)9月、新富座で初演された際、脚色者の柳川春葉とお蔦を演じた喜多村緑郎が二人で付け加えたものだということがわかりました。
泉鏡花はこの脚色が大変気に入ったようで、大正3年(1914)に、この別れの場面だけを一幕物の脚本
『湯島の境内』
として書き下ろしています。
原作は早瀬主税が師によってお蔦と別れさせられる悲恋に、権威主義への反抗を絡ませて描いた小説ですが、これには鏡花の実人生が色濃く反映されているといわれます。
すなわち、鏡花は神楽坂の芸者桃太郎(本名:伊藤すず)と同棲したものの、それを文学の師・尾崎紅葉から反対されて、やむなく別れたことがあります。のちに正式に結婚しましたが、このときの経験が小説に投影されているというのです。
2番に出てくる筒井筒は、筒井(筒状に丸く掘り抜かれた井戸)の上部に取り付けられた木枠のことで、
『伊勢物語』
などでは幼馴染みの男女を象徴する言葉として使われています。 
■別れのブルース
作詞:藤浦洸、作曲:服部良一、唄:淡谷のり子
   窓をあければ 港が見える
   ・・・
   恋には弱い すすり泣き
   二度と逢えない 心と心
   踊るブルースの 切なさよ
昭和12年(1937)のヒット曲。
ウ~ム、昭和モダニズムの匂いがする……。
モダニズムは、一般的には
「都会的・近代的な感覚を示す芸術上の諸傾向」
ですが、日本では、大正~昭和初期に、欧米の思想・芸術理論・様式などを積極的に取り入れて、現代人としての新しい感覚を表現しようとした運動や傾向を指しています。
このころ、ジャズ、ダンス、カフェなどのモダニズム文化がサラリーマンや知識人をとらえる一方で、庶民は、剣劇映画、落語などの大衆文化に惹きつけられました。蓄音機とレコードが登場し、流行歌全盛時代が訪れ、『君恋し』『東京行進曲』などの明るい曲がヒットしました。
しかし、不景気が深刻化し、大陸の戦火が拡がるにつれて、
『酒は涙か溜息か』
『影を慕いて』
といった哀調を帯びたメロディが人々の心をとらえるようになりました。
この歌を聞いていると、ホテルのフランス窓越しに暗い波止場を見下ろしている女性のシルエットが浮かんできます。
1番のメリケンはアメリカンのなまり。メリケン波止場はアメリカ船の着く波止場で、転じて外国船の着く波止場。
横浜港と神戸港のものが有名。
2番の「やくざ」は、ヤーサマ(ヤッチャン)ではなくて、荒事や腕力沙汰を指しています。
腕力が強ければ、当然、ヤーサマにも強いでしょうが。
ブルースの歴史については、
『思い出のブルース』
の蛇足をご覧ください。 
 
雑学の世界
http://www.geocities.jp/widetown/japan_den/japan_den016sub.htm