[東京新橋]瓢箪新道

1890
[東京新橋]瓢箪新道
明治末期,新橋の瓢箪新道に「三州屋」というレストランがあった。
木下杢太郎
「'パンの会'が日本橋瓢箪新道にある小さな洋食屋・三州屋で行なわれたというのも,そこに明治初年のエキゾチシズムの残滓が,
幾分の下町的浮世絵的趣味とともにこびりついていたからである」。
吉井勇
「あかあかと 土蔵の壁に夕日さし この新道のしずかなるかな」。
スツルム・ウンド・ドランクのあの新しい魅力に富んだ錦絵のような世界。
明治末期のあの若々しい文学の雰囲気は,いやが上にも私の感情を誘いつづけたのであった。
このあたりの真に東京らしい雰囲気の残滓に接しない限りは,「パンの会」の耽美主義の具体性に接する事はできないとさえ私は考えたのである。
しかし,明治大正時代の東京は近代化へ急速に変貌しつつあったし,大正12年9月1日の関東大震災は東京下町の変貌を決定的にした。
それでもまだねづよい江戸以来の庶民の生活風習は下町のどこかに潜んでいたが,今度の戦災はいよいよそれに終止符をうつような形になってしまった。
たとえ人のこころに,土地の習慣に,古い匂いが残ったとしても,形式はがらりと変わってしまった。
―野田宇太郎著「東京文学散歩」,角川文庫,

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1948
[東京新橋]瓢箪新道
私は歩道を漫然と巡っていると,小さなバラックの本屋に気付いた。
「M書店」と書いたペンキ塗りの看板が形式的にかかげてあった。
その店の入り口の町名看板に「大傳馬町二丁目瓢箪新道」とあった。
書店にはいると,年配の主人がひとり,片隅の狭い番台にもたれて何かの本を読んでいた。
別に特別の期待をかけたわけではなかったが、その主人に新道の事をたづねてみた。
「何しろ明治末期の事だから,どうかと思うが,この辺りに瓢箪新道という一角があったのをご存じではないでせうね」。
すると,その答えは思いもかけなく
「知っています」
であった。
その人は「パンの会」を知っているのみならず,「三州屋」の子息と知り合いであったという。。
私はそこでいろいろな知識を得て,そこで得た知識をたよりに,M書店を出て堀留のほうに向かった。
一つ目の横丁が電車通りから右に曲がっている。
それを通りすぎるとまた次の横丁があった。
「これがさっきいっていた横丁だな」。
と思って私は曲がり角の家をみた。
向かい角には「O」という薬屋がある。
手前の角は紙袋屋。
その間の横町を右に曲がろうとして空を仰いだ私の眼に,高い銭湯の煙突が映った。
その煙突には大きな文字で「瓢箪湯」と書いてあるではないか。
「瓢箪湯」。なるほど,昔の瓢箪新道につながる名前だ。
「瓢箪湯」は焼け跡にできた何処かの田舎の町の銭湯でもみるような全くのバラック造りである。
奥まった入り口には,黒字の暖簾に「瓢箪湯」と白く染め抜いてある。
「箪」が「単」になっている。
折から夕暮れ近い時間で,近所の娘さんらしい浴客が,私の前を湯道具を抱きながら通って行った。
私はあらためて横町の真ん中に佇んで,昔の瓢箪新道の名残はほかにないかと探した。
しかし焼け跡となったこの一角には何も見出す事はできなかった。
瓢箪湯の向かいは「花柳」という小さな料亭,
隣はパチンコ屋が並んで看板をだしている。
瓢箪湯の板塀の前の路傍には板切れや縄くずなどのガラクタが積んである。
その横町の奥は十字路になっていて,
十字路の手前右角は,戦後何処にもよくある事務所のような家がある。
何かの鉄材関係の事務所であるようだ。
どうやらこの事務所のあるあたりが,かつての「三州屋」のあったあたりであるようだ。
しかし,付近には赤々と夕日が差す土塀があるわけでもなく,
明治初年のエキゾチシズムを感じさせる古風な西洋料理屋の残滓があるわけでもなかった。
―野田宇太郎著「東京文学散歩」,角川文庫,

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1872
新橋駅

汽笛一声新橋を
はやわが汽車は離れたり
愛宕の山に入り残る
月を旅路の友として

この鉄道唱歌で名高い新橋は,明治5年に初めて東京-横浜間に「陸蒸気」と呼ばれた汽車が開通したときの起点であった。
その旧位置は今の汐留駅に残る。
この新橋から有楽町・東京駅にかけての一帯が丸の内界隈で,
そこには運輸省・朝日・毎日を始め,各新聞社劇場・都庁・中央郵便局・各種銀行があり,
その上,全国大会社の事務所が丸ビル・新丸ビル及び丸の内ビル街に集中している。
丸の内界隈はまさに日本の心臓部である。
大正3年に東京駅ができるまでは,新橋が東京の表玄関であった。
ここから有楽町に向かって左側の車窓にレンガ造りの帝国ホテルが見える。
この建物と勧業銀行との間,今は空き地になっているところに明治16年当時日本で最もハイカラなイギリス風の「鹿鳴館」が新築された。
イギリス建築技師コンドルの設計したレンガ造り4階建ての「鹿鳴館」は新橋駅から場所で乗付ける外人や我が上流社会の人々の国際的社交場で,舞踏会・園遊会・音楽会・かるた会など連日連夜華やかな集会が続いた。
当時不平等条約改正のため極端な欧化主義に推進した国策の波は夫人慈善会・ローマ字会・園芸改良運動・男女交際法改良会等を生み出し,果ては人種改造論にまで高まっていったのであった。
鹿鳴館はこうした欧化主義のセンターであり,その象徴的存在であった。
ー東京歴史散歩,河出新書,高橋真一

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1946

1946

1947











新橋界隈,1920