[市場] 近代広告

1900
「都市醜」としての看板
都市美運動の中では,都市を見苦しくしている要素である「都市醜」を取り除くことが大きな目標に掲げられていた。
その1つとして槍玉に挙げられたのは,看板やネオンサインなどの屋外広告であった。
明治以降,看板が大型化して,派手になる傾向が加速化していた。
例えば明治中期に激烈なたばこ販売競争を繰り広げた村井吉平と岩谷松平は看板にもひときわ目立つものを作らせた。
村井は1895年(明治28年),京都の街中から見える如意ヶ嶽(によいがたけ)の山服に
「サンライス」などのタバコの銘柄を記した巨大な野立看板を出した。
同じ頃に岩谷は東京の銀座にある店舗に長さ50メートル以上もある巨大な看板を掲げて,
「驚くなかれタバコ税金××万円」
と大書した。
この納税額は俊雄減るごとに増えていて,岩谷商会の繁盛ぶりを示したのであった。
また薬業界でも仁丹を売り出した森下博が積極的に屋外広告を展開していた。
大礼服にカイザー髭を蓄えた官人のトレードマークを作り出して,「仁丹」と言う文字とともに広告意匠に滑り込ませた。
明治末期ごろから全国の至るところに仁丹の大きい看板,広告等,電気広告,電柱広告,野立看板などが氾濫していた。
もちろんこのような看板の判断を快く思わない人も多かった。「都市美化運動」という以前に,人々の間には広告の自粛を求める雰囲気もあった。
「明治東京逸聞史」には, 1911年(明治44年)の雑誌記事として,こんな意見が紹介されている。
「憎らしいものは仁丹の広告です。我々の生きている現代には仁丹のためにどれだけ騒々しく,どれだけ卑しく考えられなければならないのでしょう。仁丹の広告の意匠は日本民族の公敵です。世論の力で改めさせなければなりますまい」。
また,画家の小出楢重は「めでたき風景」(1930年,岩波文庫,小出楢重随筆集)の中で
「ペンキ塗の看板は人の頭を殴りつけるような存在である」
と評している。
都市美運動に関わる人々には当然そういった意識が強く,見苦しい看板や派手な看板を都市から排除すべきだとか,何らかの形で統制を加えるべきだと考えていた。
特に震災復興期の東京にはバラックが立ち並ぶ街にペンキ塗の看板が溢れていた。
都市美協会の主要メンバーであった橡内吉篤はこう言っている。
「バラックの帝都は全く看板の帝都であると言っても良い位,生々しいペンキ塗りの看板が著しく目につきます」。
巨大な文字の看板や建物の上半分が全部看板で埋められた店舗は,まるで看板の化け物であって,見る側は大きな看板で頭から押さえつけられるような感じがするし,線の美に乏しい文字がいたずらに大きく表示されているのは,いくらひいき目に見ても快感ではないでありましょう。
また電柱や塀に貼られたポスターやビラの多さは「貼札の帝都」といえる位の状況を呈していると指摘する(都市計画,のれんや書房,1926年)。
大阪でも事情は同じであって,看板の色と言う形が調和していない通りがあったり,見苦しいペンキ塗りのカフェ看板や家巨大な映画看板が氾濫していて,都市の美しさが損なわれていると言う批判が展開されていた(都市美運動について,大阪ロータリークラブ,1937年)。
道頓堀には「アドビル」と呼ばれた雑居ビルがあって,建物の外壁全面にキャラメルや化粧品,郊外電車などの広告が所狭しと取り付けられていた。
都市美化運動の関係者は看板に対する苦々しい気持ち抱きながら看板規制の方向を模索していく。
−「看板の世界–都市を彩る広告の歴史」,船越幹央,大功社,

dmoeppfonde pc