上野可否茶館













日本で最初にコーヒーという文字が登場するのはおそらく1800年の「長崎見聞録」ではないだろうか。
「かうひいは蛮人炒って飲む豆にて、、、日本茶を飲むごとくに服するなり。かうひいかんは、かうひいを浸す器なり。真鍮にて製す」。
一般には「明治事物起源」にあるように、明治2年の「開智」7編に加否の言葉が現れて、明治4年秋の「往来」には架琲、明治5年4月の「衆録」には「肉を食べた後には必ず珈琲を飲む可し。脂を去る効あり」とあるが、コーヒーが活躍するのはもっぱら活字の上でのみであった。
日本にコーヒー店の第1号ができたのは明治21年の4月の事であった。
「可否茶舘」と言って、上野西黒門町に開店している。
店は2階建て青ペンキ塗りの西洋館で、扉を開けて入るとすぐに玉突き台があって、二階に登ると喫茶室。そこにはコーヒーばかりか、洋酒やビールもあり、トランプや囲碁や将棋もでき、内外の雑誌や便箋まで揃っていたという。
この年の5月に創刊された「我楽多文庫」第1号に掲載された「下谷市黒門町可否茶舘告条」によると、「さらに化粧室という粋な別室もあるので、そこでおめかしができた」、「夏の暑い盛りには湯殿と氷室を設けた」との記載もある。
明治21年4月13日の読売新聞にも開業案内がある。
「遠からん者は鉄馬馬車になってきたまえ。近からん者は、ちょっとよって一杯喫したまえ。」という鼻息だ。
可否茶舘の経営者は中国人で、コーヒーは一銭五厘、牛乳入りコーヒーは2銭だったという。2号店は浅草にできている。
当時は珈琲店ができると新聞に応じられるくらい難しいことで、それだけで話題を集めたのである。
ところがその人気も長くは続かなかった。両店とも数年にして店をたたんでいる。ちなみにこれ以前、可否茶舘以前にも日本橋小網町に「洗愁亭」という珈琲店があり、それは明治19年11月13日の開店だったという記録もある。しかし残念ながらこれ以上の治療は何もない
(小管桂子 日本洋食物語大全)

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