新宿ナジャ

新宿ナジャ(バー)
03-351-9058
160 東京都新宿区新宿3-31-5ペガサスビル b -02
営業時間19時~午前3時
平均すると1週間に2回ほど都心に出るが、帰りは必ず朝になる。
すずめのさえずりに迎えられて玄関を開ける。くたびれ果てた僕は外気よりやや温度が高い部屋の空気に接するや、全身からアルコールの蒸気を発しながら妻の枕元へ帰宅を告げに行く。
妻は半覚醒状態で僕の報告を聞くが、僕がトイレに入っている間に再び夢の続きに埋没する。
僕は、肺が痺れるような朝の空気を吸いながら嘔吐するのが大好きだ。嘔吐の技術についてはプロ級であることを自認している。まず服を脱いで水を500cc飲む。軽い体操を行って便器に向かい、水を流しながらこの派手な儀式は始まるのである。嘔吐物はあまりない。その日の夕食で食べたものはすでに消化されているので、フランス料理のフルコースを悲惨ほどエントロピー状態で吐き出すというようなことはない。僕が吐くのはタクシーに乗る直前に食べたお通しや、飲んだビールだけだ。儀式が終わると、僕はシャワーを浴びて、朝刊の見出しに目を通し、酔い覚ましの水を入れた瓶を枕元に置いて、何も考えずに眠る。至福の瞬間だ。
目が覚めても僕は相変わらずベッドの中にいる。贅沢な惰眠の時間。このために僕はその日の大半を潰すことになる。
グロールーシュビールの空き瓶に入れた水を飲みながら、半日前を回想する。バーのカウンターには誰が並んでいたか?彼は何を喋っていたか?一人ずつ一緒に飲んでいた人たちを並べて、一度その場で言ったことを繰り返してもらう。そして自分はそれにどう反応したか思い出す。この検証が終わって初めてその日一日が終わる。
お開きになって銘々がタクシーで去っても、宴は終わっていない。飲み過ぎた人の内臓の中では第二の宴が始まり、眠りから覚めても二日酔いという苦しい宴も待ち受けている。二日酔いの日は街と自分の肉体がくんずほぐれつの関係になり、街の方が二日酔いになっているような錯覚にとらわれる。薬局に立ち寄り、冷えたソルマックを一本飲み、講演や対談を不思議に高揚した気分の中でこなして、汗をかいた後僕は一皮むけたようにリフレッシュして、性懲りもなくまたバーへでかけてゆく。
ナジャの暗いカウンターに腰を下ろすと、マスターが声をかける。「おかえりなさい」。僕はハバナクラブのオールドを飲む。
ここでは文学の話をしないしケンカもしない。
映画やプロレス料理の話題に加えて、他人の陰口を何のエクスキューズもなく行ってしまう。ただし酒の席で言ったことを記憶しておくのは僕のモラルであり、嫌味なところだ。
(島田雅彦  雑誌太陽 1987.12)
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