[東京秋葉原]八辻ヶ原









1750年
八辻ヶ原
万世橋の辺りは昔は「八辻ヶ原」などと称されていた。
維新後,眼鏡橋がかかったので「眼鏡眼鏡」といい,「万世」といってもわからないくらいだった。
-矢田挿雲,江戸から東京へ,中央公論社

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1750年
八辻原(八ッ小路)広場
八ッ小路は、明暦の大火後に設けた火除地の一つである。
この地には、背負子や荷縄を造る連尺職人の住む連雀町があった。
火除地明地のため連雀町人は筋違御門の南側の一区画に移築、残り連雀町内の25世帯は三鷹の替地へ移転した。
図の左下に筋違御門と筋違橋、神田川上流の右端に昌平橋がある。

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1750年
筋違門内八ッ小路
筋違御門の周囲に火除明地として設けられた広小路から八方向へ進めるので八ッ小路または八辻ヶ原とも呼ばれていた。
柳並木は浅草御門から続いた柳原土手で、その中ほどの番所小屋の後に昌平橋に通じる冠木門の横木が見える。
また番所小屋の左の屋敷と土手の間を進むと淡路坂である。
この柳原土手沿いの右下を神田川は流れている。
その右上に名所・神田明神の櫓門と本殿が見える。
左下には筋違橋を渡り枡形門を抜け神田橋方面へ向かう大名行列が描かれている。
明治45年(1912)万世橋駅が造られ、八ッ小路が駅前ターミナル広場となった。
その広場のシンボルとして、日露戦争の英雄、広瀬中佐と杉野兵曹長の銅像があった。

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