国技館




明治42年(1909年)
明治42年(1909年)、東両国に国技館が会館した。
これまでの技場は回向院にかわり国技館となった。
桟敷から4階まで16000人分の客席があったというから、
足掛け4年がかりの工事も無理はなく、
それだけの収容人員を予定するほどの人気があったわけで、前評判も大したものであった。
常陸山・梅ヶ谷の両横綱の全盛時代で、
2年ばかり後に、あまりに強すぎて人気が振るわなかった太刀山も横綱を張るが、
円筒形の館内はすべて鉄骨に支えられ、
まさに大きなこうもり傘をひろげた構造で、
「大鉄傘下の熱戦」という言葉もここからうまれた。
-中公文庫 石版東京図会

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明治42年(1909年)
東両国に国技館が会館した明治42年(1910年)6月、開館式に続き大相撲の初興行を終えた後、
この大会場を利用して活動写真の興行に山をかけた者があった。
活動写真は明治29年(1906年)にはすでに輸入され、
明治30年(1907年)2月には歌舞伎座に朝野の名士を招待して「バイタスコープ」の披露を行ない、
ついで神田の錦輝館で一般公開をしている。
-中公文庫「石版東京図会」

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