前橋駅




さて、明治政府が行った一大事業として上げられるのが鉄道の施設。
 まず、真っ先に名前が上がるのは新橋―横浜間ですが、
 実は前橋(厩橋)も明治3年の時点で生糸輸出のためとに、
 「信州上田、上州厩橋、奥州福島、羽州米沢」など生糸産地に鉄道を施設すべしと、名前が上げられています。
実際に明治13年2月に東京―前橋間に鉄道起工命令が政府より下されています。
これとほぼ同時並行で「中山道線」の建設も計画されます。
明治まで江戸―京都・大坂間は東海道、中山道の2つのルートが通っており、このどちらに鉄道を敷くかという話です。
これは明治4年から調査が進められたものの、ようやく明治15年になって中山道線建設の許可がおります。
決定理由は東海道より中山道ルートの方が養蚕地域を通過すること、
そして山県有朋ら軍首脳が海上よりの攻撃に備え、内陸ルートを推したためと言われています。
ところが、この間に西南戦争もあり財政的に不安定に・・・
ここから先が、話が大分こじれますw
財政難に陥った政府は薩摩出身の吉井友実を社長とした、半官半民の「日本鉄道会社」を設立して、
まず「中山道線」の建設に取りかかります。
この時、前述の明治13年の東京―前橋間の計画は凍結されており、区間は高崎までとされました。
しかしこの日本鉄道、発起人には宮崎有敬初代群馬県議長、星野長太郎副議長(水沼製糸場社長)そして下村善太郎らが群馬県関係者が名を連ねていました。
そのため、、、
日本鉄道会社株金領収表(明治15年)
 府県  人数     株数
 東京  1055   83449
 埼玉   396    3781
 群馬  3233    7208
 栃木     3      34
株主の人数では東京を抜いてトップに!!
しかも下村ら前橋関係者が大半を占めた為に、正式決定では東京―高崎―前橋間の着工が決定しました。
もちろん、これが後の国鉄(JR)高崎線ですが、実は最初は私鉄だった!!
しかし!ここで最大の問題が。
高崎から前橋に至るルートには、「坂東太郎」の異名をもつ大河・利根川があります。
幕末に万代橋、総社橋、そして初代大渡橋が架けられるも、いずれも短期間に流失。
明治10年代になっても船橋に頼る状況でした。
富岡製糸場の工女さん達は船橋渡って前橋まで来たのかね・・・
そこで利根川架橋はひとまず後回しにして、仮設の前橋駅を利根川西岸に設けることにしました。
現在の新前橋駅との利根川の間に内藤分(内藤ステーション、石倉ステーション)が置かれました。
これが初代「前橋駅」になります。
内藤ステーション跡。現在は石碑と汽車のプレートがあります。
なお、石碑は福田赳夫元首相書。
起点は上野となり、明治15年6月に上野―高崎―前橋間が着工。
上野―熊谷間が16年7月にまず開業。
同年10月に熊谷―本庄間が開業して、
 更に12月27日に新町まで開業して、群馬県にはじめて鉄道が敷かれました。
 ・・・なお、鹿鳴館の落成は明治16年11月28日ですw
新町―高崎間の開業が明治17年5月1日。
楫取県令は同年7月30日に県令職を辞し、この高崎駅から群馬を去っています。
そして8月20日に高崎―前橋(内藤分)が開業します。
その後、私鉄の「両毛鉄道」のより小山―前橋間が建設され、明治22年11月20日に完成します。
この間に明治18年の不況がありましたが22年に遂に利根川に鉄橋が完成し、
12月26日に前橋駅に鉄道乗り入れが実現しました。
(内藤ステーションは前日の25日)に廃止。
 内藤ステーション跡を走る両毛線。現在は高架。
なお、後日談を少し足すと、
「中山道線」計画は明治18年に横川駅までは早々に完成するものの、その先の碓氷峠の工事が難工事を極め、最終的には主要ルートは東海道となりました。
もし、中山道線が予定通り完成していたら、日本列島の風景も随分と変わっていたでしょう。
ああ、、、のんびり釜めし食えないか・・・
全線開通して前橋田中町(現表町)に開業した前橋駅。昭和2年まで使用されます
 参考文献
 『群馬県史』通史編8  平成元年
 『前橋市史』第3巻  昭和53年
 『写真集 明治大正昭和 前橋』 昭和54年
智本光隆

歴史作家 智本光隆「雪欠片―ユキノカケラ―」
http://blog.goo.ne.jp/m-chimoto/e/049fb51d1894284e1e2ff801b6a47e96