[東京神田] 軍人会館/九段会館

 1933

 1936(226事件)

 2007







昭和8年・軍人会館  
軍人會舘の時事写真速報/昭和8年
こちらは昭和8年7月1日発行の【時事写真速報】ですが、《
九段の偉観 上棟式が迫る軍人会館》というタイトルです。
九段と書いてありますように、この建物は九段下にある現在の【九段会館】の事です。
記載には11月完成予定となっていますが、実際には翌年5月竣工です。
現在の九段會舘・旧軍人會舘
速報にも書いてありますが【軍人会館】とは当時の現役及び退役軍人たちの出資によって建てられたもので、予備役軍人の教育鍛錬の場として利用されていました。
写真でも判りますように、鉄筋コンクリートの壁に、和風の屋根ですが、これは昭和初期に流行した帝冠様式の建築物です。
またこの軍人会館はさまざまな歴史と共にあったようで、昭和11年の二・二六事件では、戒厳指令部が置かれ、翌年には愛新覚羅溥傑の結婚式が行われます。
戦後は連合軍に接収され、10年以上連合軍の宿泊施設として利用されますが、その後【九段会館】と名を改め1100人収容のホールはコンサートホールとしても使用され、また結婚式の会場としても広く知られるようになりました。
それにしてもこの【軍人会館】は規模の大きな建築物だったようで、この当時としては珍しく、クレーンも使用されていたようです。今とは構造が大分違い、アームが鉄塔部分を移動するタイプなのでしょうか?

昭和からのおくりもの
http://syowakara.com/04syowaB/syowaB40gunjin.htm








旧・九段会館 / Kudan Kaikan (N/A)
東日本大震災による事故発生のため休業⇒廃業した「九段下のランドマーク」
開業84年めの施設です。
閉店してからおよそ7年になります。
九段会館
162室、うち和室31
千代田区九段南1-6-5
財団法人日本遺族会
  終了:2011年頃
  創業: 1934年
  確認: 2016年7月10日
•九段下交差点そば。
 瓦屋根をかぶった和洋折衷の不思議な建物は戦前からのもの(昭和9年竣工)。
 丘の上の日本武道館とともに九段下のランドマークだった。
•ホテルは別の建物にあり、シングル、ツインに加えて和室も充実していた。
•2011年3月11日、東日本大震災により大ホール天井が崩落、
 開催されていた「東京観光専門学校」の卒業式出席者から2名の死者と34名の重軽傷者が出て営業休止、
 そのまま同年4月12日付で廃止、という結果に至った。
 ホテル部分は事故が起きたのは別の建物だったのだが、運命をともにした格好。
•敷地は国有地で、日本遺族会に無償貸与されていた。
 2014年9月時点ではまだ建物はそのままだが、民間企業に土地を貸し付けて解体・高層ビル建築をゆだね、
 完成したビルの一部を国が遺族会に無償で貸して遺族会事務所にあてる計画が進行中。
•2016年7月現在、日本遺族会の事務所は九段会館近隣の「千代田会館」(九段南1-6-17)に入居中。
•隣接する九段会館大ホール(1112人収容)のクラシックな内装は一軒の価値あり。
 映画『ALWAYS続・三丁目の夕日』『クローズド・ノート』などでもロケに使われた。
 「靖国な宿に泊まって古本屋街をあさる」(東京ディープな宿の見出しから)
屋上、緑のビアガーデン「麦酒友達(ビアフレンズ)」を5月~9月下旬まで営業。期間中無休。
このホテルが詳しく紹介されている資料書籍
 ・クラシックホテル案内 甲斐みのり著 by ベストセラーズ (2007/03)

mport.info
http://www.mport.info/inn/tokyo/










2017.10.02 Monday
10/2(月) 
ブラクダン⑬九段会館
学舎の窓ー校長室だよりー
九段会館は九段坂を下って、本校から歩いて8分ほどのところ、皇居・牛ヶ淵のほとりにあります。
堀を挟んで向かいにあるのが日本武道館。
九段会館は昭和9年(1934)に軍人会館として竣工し、鉄筋コンクリートに西洋風な外壁を施しながらも屋根は東洋的な軒のある瓦屋根をかぶせた、独特の雰囲気を醸し出す「帝冠様式」で知られます。昭和11年(1936年)2月26日に起こった「二・二六事件」では戒厳本部となるなど、歴史的建造物とも言えます。戦後はホール(講堂)やレストラン、宿泊施設などを備え、結婚式やイヴェント各種などに使用されていましたが、東日本大震災の影響で平成23年(2011年)4月に廃業し、施設は閉鎖されています。現在、関係団体が今後の再建方法や利用方法等を検討しています。
校内に大きな講堂を有しない本校は、近くて由緒ある大きな建物ということで、
入学式・卒業式、学校説明会等で借用させていただいてきました。
震災後は利用できない状態が続いていますが、利用方法が決定し、また借りられることを祈っています。

二松學舍大学附属高等学校 公式ブログ
http://nishogakusha.jugem.jp/?eid=1744






1936
昭和11年は、陸軍の皇道派の青年将校らが国家改造を目的にクーデターを挙行した。
これが「二・二六事件」である
雪降る帝都東京を震撼させたのだ。首相官邸・警視庁・朝日新聞社などが襲撃され、斎藤実内大臣・高橋是清蔵相・渡辺錠太郎陸軍教育総監らが殺害された。
戒厳令が敷かれ、戒厳司令部が設置され、当初は「蹶起部隊」とされたが、後に「反乱軍」となり、鎮圧された。
その結果、統制派が実権をにぎることになり、粛軍が行われ軍部の政治的発言権が高まることになった。
物騒なクーデタ―事件が起きた二月は、ロシアの声楽家、シャリアピンが来日し、圧倒的な声量が日比谷公会堂に響き渡った。
表現力も豊かでその芸術に古関は感銘を受けた。
五月に入ると今度は荒川区尾久で「阿部定事件」という猟奇事件が起こった。
流行歌・SPレコード歌謡では、渡辺はま子が甘ったるく歌う《忘れちゃいやヨ》(最上洋・作詞/細田義勝・作曲)が流行した。
二・二六事件に幕を開けた昭和11年、古関はふたたび野球と関わりを持つ。
昭和九年の日米野球を機に結成された大東京巨人軍は、翌年のアメリカ遠征で成果を挙げ、職業野球の展望を開いた。
そのころ、大坂の阪神電鉄も職業野球のチーム結成の動きを見せていた。
昭和一〇年一二月一〇日、「大阪タイガース」が設立され、現在の阪神タイガースが誕生したのである。
大阪タイガースの創立に合わせて、早速、球団歌が作られた。
作詞はすでに「赤城の手守唄」で名を成していた佐藤惣之助、作曲は六年の日米野球の応援歌「日米野球行進曲」や早稲田の応援歌「紺碧の空」、流行歌の「船頭可愛や」で知られ始めていた古関に白羽の矢が立った。
歌が出来上がると、早速、一一年三月二五日、「甲子園ホテル」で開かれた。チーム激励会で初披露された。日本コロンビアからジャズシンガーで売り出していた中野忠晴の歌によってレコードが吹き込まれた。だが、レコードは関係者に配布されただけで、一般に発売されたものではなく、当時はあまり普及しなかった。
古関は昭和一一年に入ると、前年に実績が影響し新譜発売が非常に多くなった。
二月だけでも一〇曲を数えた。
こうなると、古関もヒット数ではまだまだだが、江口夜詩と並ぶようになってきたのだ。
そして、大衆歌の作曲家としても知名度が大分でてきたのである。
昭和一一年春、ビクターから、藤山一郎をテイチクに迎えた 古賀は、都市文化の讃歌・昭和モダンを高らかに歌った
《東京ラプソディー》
を作曲した。
声量豊かな響きと正確無比な歌唱を誇る藤山の歌でヒットし、古賀メロディーの第二期黄金時代が確定し、
「古賀政男・流行歌王」
としての地位が確立したのである。
藤山はビクターでは、本名の増永丈夫で本格的クラシックを独唱することは別にして、流行歌はもちろんのこと、外国民謡、内外の歌曲、タンゴ、ジャズ・ソングなどを幅広く歌っていた。だが、経済事情からふたたび流行歌のヒットを狙う必要に迫られていた。
藤山のテイチク入社からすぐに古関にとって驚くべきことがあった。
当時、海外で広く活躍していたオペラ歌手三浦環三が流行歌の寵児(ちょうじ)藤山と共に明大マンドリン倶楽部の第二十六回定期演奏会(十一年六月十六日)で古賀メロディーを独唱したのである。三浦は以前から流行歌にも関心が深かった。当然、古賀メロディーにも注目していた。そして、三浦環は、音丸でヒットした「船頭可愛や」をレコードにしたのである。古関、民謡とはいえ、作曲上クラシック風な楽想を考えていたので、世界のプリマドンナ三浦の申し出は願ってもないことであった。三浦のレコードは十四年四月新譜でコロビビアから発売された。レーベルは外国の著名な音楽家が録音する青盤レコードで発売されるのは作曲家古関にとって最高の名誉だったのである。
古賀・藤山コンビは、流行歌界の頂点に立った。ヒットは続く。各レコード会社は古賀メロディーに圧倒された。古関は、クラシックの正統派・藤山、ジャズシンガー・ディックミネ、洋風演歌・楠木繁夫を得てモダン都市文化をテーマにヒットを放つ古賀メロディーに対して、古関は民謡調のレコード歌謡で勝負を挑んだ。
昭和一一年七月新譜の古関メロディーは、西條が作詞し《船頭可愛や》ですっかり人気歌手になった音丸が歌った《大島くずし》(西條・作詞・古関・作曲)だった。B面は松平晃が歌う《夢の大島》(西條・作詞/ 古関・作曲)。佐々木俊一の《島の娘》が《相馬節》をベースにしていたこともあり、古関も民謡に日本人の生命的エネルギーを求めたのである。だが、モダン都市文化の讃歌・《東京ラプソディー》の前には沈黙した。
八月新譜の古関メロディーでは、伊藤久男が歌った《緑の大地》(久保田宵二・作詞/古関・作曲)、西條の詩にバンジョー、マンドリン、スチールギター、フルートなどの楽器を融合させ作曲した《キャンプは更けて》(西條・作詞/ 古関・作曲)を発売したが、ヒットにはつながらなかった。《キャムプは更けて》の歌唱者の二葉あき子は東京音楽学校師範科を卒業後、故郷の広島で女学校(三次高女)の先生をしていたが、コロムビアからデビューした。古関は、そのデビュー曲である《愛の揺籃》を作曲している。二葉は東京音楽学校在学中に同校の奏楽堂で独唱する声楽家増永丈夫がすでに 藤山として人気流行歌手と知り、流行歌への関心を持っていた。
古関は《船頭可愛や》のヒット以後、流行歌の作曲に再び行き詰まりを感じていた。
古関は民謡に着目していたが、喜び悲しみをさらけ出す解放性や原始性をクラシックの技法で完全に表現することは無理がある。
古関はその壁にぶつかった。日本的な心情となれば、やはり、哀調趣味を求めた浪花節的な艶歌調か退嬰的な俗謡風の流行り唄にするしかないのかと思えば、 古関の理想とは違ってくる。その矛盾を打開するために、古賀はギター・マンドリンのクラシックから得た外国調のリズムを巧く使った。また、コロムビアに最近ニットーレコードから移籍した服部良一はジャズを試みている。古関は純クラシック音楽で流行歌を作りたかった。
古賀メロディーのヒットは快調だった。日活映画『魂』の主題歌《男の純情》は、いわゆる現代の演歌調であるが、正統派の藤山が歌うと格調が高い。
《男の純情》のB面の《愛の小窓》も好評だった。歌唱はディック・ミネ。邦楽的技巧表現に重点を置いた《愛の小窓》をジャズシンガー・ディック・ミネに歌わせるなど,奇抜な古賀のアイディアは成功した。昭和一一年一二月新譜で吉屋信子原作『女の階級』の映画主題歌・《女の階級》が楠木繁夫の情感溢れる歌唱でヒットした。B面は《回想譜》。 藤山が美しいメッツァヴォーチェの響きで浜辺の抒情をしんみりと歌った。
コロムビアから、一一月新譜で淡谷のり子が妖艶なソプラノで歌った
《暗い日曜日》(久保田宵二・作詞/セレス・作曲)
が発売された。淡谷は、昭和モダンの哀愁を歌いあげた。コロムビアは翌月新譜で松平晃が歌う《人妻椿》(高橋掬太郎・作詞/竹岡信幸・作曲)を発売した。
同月新譜の古関メロディーは、同郷福島県いわき市出身の霧島昇に歌わせた《月の夜舟》(西岡水朗・作詞/ 古関・作曲)が発売された。霧島昇は流行歌手を目指し東洋音楽学校に学び、昭和一一年、エジソンレコードか坂本英明(夫)の名前で《僕の思ひ出》を吹込みレコード歌謡に登場した。その後、コロムビア松村武重文芸部長の目に止まり、《思い出の江の島》《月の夜舟》を吹込み、霧島昇として同社から、デビューした。
昭和一二年一月新譜で、古関メロディー・《米山三里》(高橋掬太郎・作詞/古関作曲)が発売された。古関は音丸の歌唱に期待し民謡に固執した。
だが、同月のテイチクから新譜発売された《ああそれなのに》は、サラリーマン・ソングとして、ホワイトカラーの中間層のペイソス溢れる生活(モダンライフ)を歌い、美ち奴の歌唱でヒットした。
戦前のホワイトカラー全盛時代にも戦争の気配は感じられた。
昭和一〇年の美濃部達吉の憲法が国体に反すると批判を浴びた(天皇機関説問題)、昭和一一年には、歌にも登場する「アドバルン」が人々を不安な表情にさせた「勅命下る軍旗に手向かうな」のそれを思わせた。しのびよる軍国の足音と昭和モダンの都市文化が共存していたのだ。
昭和一二年一月新譜で《人生の並木路》が発売された。これは、古賀の少年時代の故郷喪失の体験がそのまま歌になったようなものだ。その故郷との離別を主題とした《人生の並木路》をジャズシンガーのディック・ミネが根気よく歌ってヒットさせるのだから、古賀メロディーの奥深い魅力があるのである。
古関は前年八月新譜で発売された《ミス仙台》の詩を作り変え、《乙女の十九》(西條・作詞・古関・作曲)として再生した。
歌唱は二葉あき子。
また、同月新譜では、昭和一二年の御勅題にちなんで 西條-古関によって作詞・作曲された
《田家の雪》(西條・作詞/古関・作曲)
が発売された。
前奏・間奏には尺八が使われ、日本の藁屋根や田圃に積もる雪の「シバレル風景」が楽想に込められ、まるで墨絵のような日本農村の墨絵のような伝統美を表現している。だが、都市文化を享受する中間層のレコード歌謡ファンはモンダニズムの哀歓を求めていた。テイチク三月新譜では青春の哀歓をテーマに青年心理を巧みに衝いた《青い背広で》(佐藤惣之助・作詞・ 古賀・作曲)と青春の感傷を美しく歌い上げた《青春日記》(佐藤惣之助・作詞/古賀・作曲)が藤山の歌唱で発売され、ヒットした。
一方、ポリドールは藤山を迎えた古賀メロディー・テイチクに対して、文芸歌謡・名作歌謡を企画していた。
東海林太郎がこの傾向を歌いモダン都市を歌い藤山と歌謡界の「団菊時代」を形成していた。
そして、ポリドールは、東海林太郎よりももっと泥臭い道中・股旅歌謡で浪花節ファン層を取り込むために上原敏を売り出した。
《妻恋道中》(藤田まさと・作詞/阿部武雄・作曲)は上原敏をスターダムに押し上げたのだ。ポリドールは藤田まさと―阿部武雄―上原敏のトリオで道中・股旅歌謡で新たな展開を迎えるのである。
一方、古関が憧れを持つクラシックは、ワインガルトナーの来日が大きな話題であった。
昭和一二年五月三一日、日比谷公会堂で「ワインガルトナー夫妻指揮交響楽演奏会」が開催された。
曲目はベートヴェンの《交響曲第五番》《交響曲第六番》《レオノーレ序曲第三番》が中心だった。
世界的な指揮者の音楽性に聴衆は感銘を受けた。古関も七四歳とも思われないワインガルトナーの楽曲に対する適切な解釈による指揮ぶりに感動したのである。 

雑学の世界
http://www.geocities.jp/widetown/japan_den/japan_den016sub.htm







九段下の「九段会館」。2011年の東日本大震災で犠牲者を出したため、現在建て替え中です。画像は2007年9月の兎耳のメイドさんがいたビヤガーデン時代(夜間)と、2008年3月のお花見の際に撮った日中になっております。
九段会館は昭和9年の竣工で設計は川元良一、施工は清水組(現清水建設)。当時流行の「帝冠様式」で、ディティールなど見るべきものがありました。今回の建て替えでファサードの一部は残りそうですが、どんな形になるのでしょうか。

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かつての九段会館(昭和9年竣工)の姿。
3.11で天井崩落。多大な犠牲が出て、新築することに。
現在取り壊し中。
新しいビルは、この雰囲気を残す予定だそうですが、良くてファサード保存くらいではないかと。
休館中の2016年の写真ですが、今となっては写真を撮って置いて良かったと思います。

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[東京九段] 招魂社競馬場
靖国神社参道
招魂社競馬場は明治3年(1870)から明治31年(1898)まで招魂社の境内の馬場で奉納競馬として春秋の例大祭に競馬が行われた。
これが、日本人による国内初の洋式競馬である。
招魂社とは現在の靖国神社のことである。
競馬場は参道の両脇に柵を巡らしその端を結ぶ楕円形の一周900m(500間)のコースであった。
この競馬は当初兵部省の主催で実施されていたが明治5年に兵部省が廃止されるとその後を引き継いだ陸軍省が実施している。
競馬場としては明治34年に廃止された。


旧道行脚
http://www.geocities.jp/kikuuj/keiba/meguro/meguro.htm






招魂社競馬場(参謀本部陸軍部測量局.明治20年出版,1/5000)























九段会館がいよいよ建替えられるそうで!(10月26日)
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書庫7 特別な建物と古るそうな建物
カテゴリ東京都
2017/11/23(木) 午前 0:01
九段会館がいよいよ建替えられるそうで!(10月26日)
ちょっと間が経って約1か月前のことですが、九段会館が建替えられるとの報道があり、現状を記録しょうとその日に立ち寄ってきました、考えると閉鎖されて6年超が経っているのですね~、
①内堀通り歩道から、
②内堀通り向かいの歩道から、
③これが正面玄関かな、脇正面かな?
④鬼瓦はロボット鬼瓦みたいで(䲭尾という、じびって読むのかな?)、建設当時(昭和9年軍人會館として竣工)はびっくりの造形だったでしょうね~、部分保存はされるのかな?
⑤この壁面の飾り(鬼面装飾という)も驚きの造形ですね~、過去記事にもあります、
⑥九段坂方向から、牛が淵越しに手前に塔があるのですね~、(なんと単なる立体駐車場だってさ!)
⑦この土手下の牛が淵で、生物調査してたみたい、どうでも良いけど、10年くらい前まで
清らかな湖面だったのに、今は蓮田になってしまっている蓮を除去してほしいよね~、
おまけに
⑧⑨九段下の脇の店で昼食、飛び込みですね、そのコツは開店すぐにはいることですね、まだ暇でいろいろ聞けるから!
⑩⑪オムライスだったかな、満足でした(食レポ不得手ですから・・・)
⑫10月26日の日経新聞を、
過去記事
2015.8.4「魔よけ、1934年竣工の建物は?、答は九段会館でした(8月1日)」
https://blogs.yahoo.co.jp/kro331/48843363.html
参考
「九段会館にかかる建物調査等業務報告書」平成27年12月一般財団法人 建築保全センター(大量で興味がある人以外は見る必要なし、興味あれば面白い)
kantou.mof.go.jp/content/000134357.pdf

都市写真東京・スカイツリー
https://blogs.yahoo.co.jp/kro331






━─━─━─[九段下]━─━─━─━
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書庫懐古趣味
カテゴリその他文化活動
2006/2/3(金) 午後 3:48
九段下には先の大戦で戦没された軍人・軍属だけでなく文官・民間の人たちが祀られている「靖国神社」があります。
3枚は九段会館の外にある公衆トイレ~
たしか昭和初期の造りということでして・・・パチリ☆
ドアはご覧の通り倉庫のようで閉めるとギィィガシャーーーン・・・!みたいなね。サビ具合が素敵♪
掲載写真は携帯写真なのでヘンテコリンだね。。 (・・*)ゞ
でもこういう感じがとてもすきなんです。
          
○o。..:ニッポン建築紀行:..。o○
https://blogs.yahoo.co.jp/chipimaro22/MYBLOG/yblog.html?m=lc&p=10
https://blogs.yahoo.co.jp/chipimaro22/MYBLOG/yblog.html?m=lc&p=188