[東京池袋] ときわ荘








[東京池袋] ときわ荘
#住居
昔、ぼくが雑誌『荷風』に書き、ポプラ社から『昭和 失われた風景・人情』として単行本化された「トキワ荘」のルポルタージュ。
講談社の伝説的漫画編集者・丸山昭さんから「いままでトキワ荘を書いたルポの中で出色の出来です」と大絶賛された文章。藤子 不二雄Ⓐさんからも「感動しました」とお便りをいただき、その後、飲む約束もしていたのだが、ちょうど赤塚不二夫さんが亡くなって、幻の飲み会となってしまったのが、残念。
⬛“トキワ荘”のあった町
〜それはマンガが青春だった頃……〜
豊島区椎名町5丁目にあったトキワ荘。
昭和30年前後、幾多の若き天才マンガ家たちが
奇跡的に巡り会った、伝説的アパート。
椎名町という町名もトキワ荘もなくなってしまったけれど、
たまらなく懐かしく、いまもまだポッと胸に残っている。
往時を噛みしめながら、町を歩いてみた------。
⬛トキワ荘の黎明期
ぼくは昭和33年、東京都豊島区椎名町4丁目で生まれた。以前は椎名町を説明するときに「西武池袋線で池袋の次の駅で昔、帝銀事件があった所です」といっていたが、いつの頃からか「昔、トキワ荘があった町ですよ」といえば、通じるようになった。トキワ荘……いまさら説明も不要だと思うが、手塚治虫、寺田ヒロオ、藤子不二雄、石森章太郎(後年、石ノ森に改名するが、煩瑣になるのでこの稿では石森で統一)、赤塚不二夫、水野英子らが住み、つのだじろうや永田竹丸、園山俊二らが通い詰めた伝説的なアパート。手塚治虫は自らトキワ荘を「マンガ界の梁山泊」と称したが、ぼくはパリの“洗濯船”を連想する。20世紀初頭、パリのモンマルトルにあった安アパート、ピカソやモディリアーニらが住み、アポリネールやコクトー、マティスらが頻繁に出入りし、芸術拠点となった所。世に出る前の天才たちが奇跡的な巡り合わせで集ったたぐい稀な空間という点でぼくの中で混淆している。
 新築ホヤホヤのトキワ荘に手塚治虫が入居したのは、昭和28年初頭。『漫画少年』編集者の加藤宏泰が結婚してトキワ荘に引っ越したのを機に手塚を呼び寄せた。『漫画少年』の名編集長として知られる、宏泰の父・加藤謙一からの業務命令だった。当時から超売れっ子の手塚に対する各誌の争奪戦はすさまじく、また締め切り間際に手塚が行方をくらますことも日常茶飯であった。そこで「身内のもとに手塚を住まわせておけば安心だ」と加藤は考えた。当時、西武池袋線沿いには島田啓三、芳賀まさお、馬場のぼるなど多くのマンガ家たちが住んでいたことも、椎名町という場所選びに影響したことだろう。トキワ荘は薄いベージュ色の外観で木造モルタル2階建て、炊事場・トイレ共同、押し入れ付きの4畳半1間、全22室、敷金3万円、家賃3000円、当時の典型的なアパートだった。いまでは信じられないことだが、昭和20年代の椎名町の夜は満天の星空で、手塚は2階の自室の窓からよく夜空を見上げたという。机と本箱を置いただけの4畳半の部屋……年収200万円で関西の長者番付に載った手塚を取材に来た『週刊朝日』の記者が、カーテンさえもないそのあまりに簡素な暮らしぶりに驚いて記事を書いた。しかし、加藤の考え通りにはいかず、手塚がトキワ荘で落ち着いて仕事することはあまりなく、各誌にカンヅメにされたり、宝塚の実家に帰ることも多く、翌年には雑司ヶ谷に引っ越してしまう。
寺田ヒロオがやはり、加藤の紹介でトキワ荘の手塚の向かいの部屋に入居したのは昭和28年の大晦日。寺田は同年、電電公社を辞めて新潟から上京、『漫画少年』の常連投稿家であり、投稿欄の選評も担当しており、同誌の読者にはよく知られた存在だった。「トキワ荘には世話してくれた加藤さんから借金して入りました。マンガでとにかく食えればいいと思っていましたが、自信はまったくなかったんです」(『トキワ荘の時代』)。このとき、寺田22歳、新潟訛りを気にかける内気な青年だった。
翌年10月、藤子不二雄が手塚の部屋だった14号室に引っ越してきた。敷金3万円は手塚が好意で残していった。それまで藤子たち2人は両国の2畳!の下宿で起居していたのである。寺田は藤子のトキワ荘入りに際し、月々の生活費の詳細、鍋釜、調味料に至るまで事細かに当面の暮らしに必要な事項を書き綴った手紙を送っている。そのきめ細やかな心配りには驚くばかりだ。入居翌日の安孫子素雄(藤子 不二雄Ⓐ)の日記、管理人からこんなことをいわれている。
「『はじめ漫画家ときいて心配したんですよ。でも、手塚先生はほとんどいらっしゃらなかったけど、お向かいの寺田さんはじつにキチンとした生活ぶりで感心しました。あなたたちも寺田さんのように間代を遅らせず、部屋をキレイに使ってくださいよ』といわれる。向かいにいい見本がいるとやりにくいね。とにかく心配が消えて、あと安心して仕事に向かう。窓際に机をおいて座ると、後ろの空間が広すぎてひっくり返りそうになる。両国ではなんせ背中がピッタリ壁にくっついていたからなあ。
起きてみつ 寝てみつ四畳半の 広さかな」(『トキワ荘青春日記』)
⬛マンガ界激動の時代を生き残る
昭和30年には、鈴木伸一が入居した。鈴木さん(現74歳)は後年、『オバケのQ太郎』の“小池さん”のモデルとしても知られ、日本のトップアニメーターとなった方で、現在は杉並アニメーションミュージアムの館長も務めておられる。
「ぼくはディズニーのアニメが好きでしてね。元来、アニメーター志向だったんです。当時は日中はデザイン会社に勤務、夜にマンガを描いてました。一張羅のスーツを着ていてね、冬は寒いからそのまんま蒲団にくるまってミノムシみたいに首だけ出して寝てました。ガスも暖房もなくて、パンに塗るバターを溶かすために唯一の熱源の裸電球にバターをかざしたりしてね(笑)。でも、生活は楽しかったな。仲間意識が強かったから」
この年、大事件が起こった。『漫画少年』の発行元、学童社が倒産したのである。良心的なマンガ雑誌であり、トキワ荘のメンバーたちの求心力であり、生活の糧でもあった『漫画少年』がなくなった。特に『漫画少年』オンリーだった寺田ヒロオは約15万円のギャラの回収が不可能になった。マンガ家としてもうやっていけないのではないか、田舎に帰ろうかと思ったほど、寺田にとってはショッキングな出来事だった。しかし、その直後、『野球少年』編集部からのちに寺田の代表作となる『背番号0』連載の依頼が来て、窮地を脱する。
昭和30年はまた、悪書追放運動のピークの年でもあった。教育評論家、児童文学者らの識者、PTAのお母さんたちが「マンガは子供の健全な精神の発達を阻害する」と糾弾し、「売らない・買わない・読まないの3ない運動」を展開しようとした。往時を知る丸山昭さん(77歳)が語る。丸山さんは手塚番で、石森章太郎、赤塚不二夫、水野英子ら多くのマンガ家たちを育てた講談社の『少女クラブ』の名編集長である。
「編集者とマンガ家がパネリストとして集会に引っ張り出されるんですよ。まるで魔女狩りでね。お母さんが『少女クラブ』を手にして『これがあなたの作っている雑誌ですよ。マンガが10本も載っている。恥を知りなさい』ってね。手塚先生はマンガ界のシンボルでしたから、よく標的にされていました。その頃の手塚先生は“おやつ論”で応対してました。主食の教科書だけでは子供は育たない。おやつのマンガも与えないと……。学校にマンガを持ってこさせて、校庭で燃やしたんですよ。味方は子供だけでした」
と聞いてビックリした。これは焚書坑儒ではないか。当時のマンガ家は「士農工商の下に位置していた」という人もいるぐらいだ。。赤塚不二夫は電柱から電柱へ隠れるようにして歩いていたそうだ。胸張って「オレはマンガ家だ」といえる雰囲気ではとてもなかったらしい。しかし、逆風にあってもマンガ誌は売れていた。『少女クラブ』が公称20〜25万部、光文社の『少女』は50万部。その2、3年前からマンガ誌に別冊付録を付けるようになり、昭和30年代以降は別冊付録を何冊も付けるのが流行り出し、トキワ荘メンバーにも読み切りマンガなどの注文が殺到。大いに懐が潤うことになるのはこのもう少しあとである。
丸山さん曰く「トキワ荘の連中がパーッと世に出られたのは、ちょうどあの年代のマンガ家が他にいなかった。読者のちょっとお兄さんの年で等身大で同じ言葉で語ることができたからでしょう」
昭和31年、鈴木伸一のもとに森安なおやが居候を決め込み、さらに石森章太郎や赤塚不二夫らが入居。これでトキワ荘の2階はほぼマンガ家たちで埋めつくされることになった。この年、寺田ヒロオ、藤子不二雄、石森章太郎、赤塚不二夫、鈴木伸一、つのだじろう、森安なおやらが第2次新漫画党を結成。といってもマンガ論などはほとんどせず、ほとんどはバカ話に興じていた。たまに似顔絵会や植物園探訪などを行った。始終、宴会と称して互いの部屋を行き来していた。酒はチューダー(寺田の発明で焼酎のサイダー割り)、つまみはまぐろフレークやキャベツの塩炒めなど。夜も更けてくると、下の住人からドンドンと箒の柄でつつかれ散会。それでも話し足らなくて、今度は別の部屋に移動することもよくあった。
 石森章太郎が『トキワ荘の青春』でその頃の思いを吐露している。
「たむろ(……)という言葉がぴったりする。この形の“寄り合い”は、この後数年の“トキワ荘時代”を通じて、週一程度の割合で(多い時など連日の如く)持たれることになるわけだが……それはまさにパーティだった。飲みモノも、食べモノも余りなく、会場(部屋)こそ回り持ちでそのつど変わったが-----メンバーにも変化はなく-------それはどんな豪華なパーティにも勝るパーティだった。明るく賑やかで、活気に満ち、温かくホッとする雰囲気(ムード)
に包まれた、それはボクの、ボクらの青春そのもののようなパーティだったのだ。ああやっと(……)とボクは思った。やっと第二の故郷が、安住の地が定まった。大袈裟のようだが、ボクはその時、心底からそう思ったのだった」
彼らは相応に忙しかったのだが、実によく遊んでいる。小説を読み、映画を見、レコードを聴き、喫茶店に行き、旅行に出かけ、毎日のように語り合っている。彼ら自身も「何本も連載を抱えながら、どうしてあんな時間が取れたのか」不思議がっているぐらいだ。この年に早くも藤子不二雄はテレビを買っている。トキワ荘の住人たちがこぞって『紅白歌合戦』を見に押し寄せたそうだ。しかし、その翌年、石森がさらに何インチか大きいテレビを買ったので、今度はみんなで石森の部屋で見たという。石森はトキワ荘のメンバーの中で最年少だったが、稼ぎ頭でもあり、ステレオ、テープレコーダー、8ミリ、レコード、本などに稿料を蕩尽し、食費に事欠く有様だった。そうした彼らの遊び心がマンガ家としての豊かな想像力を育んだともいえるだろう。彼らに共通しているのは(東京生まれのつのだや永田を除くと)地方出身者であり、『漫画少年』を媒介にして知り合い、マンガ家になるために“笈(きゅう)を負うて”(本来は勉学をするために故郷を離れることの謂いだが、ぼくにはこの表現がピッタリする)上京してきたことである。   
その中でみんなから“寺さん”と呼ばれていた寺田は兄貴分であり、精神的支柱でもあった。メンバーはみな昭和10年前後の生まれだが、寺さんが最年長の昭和6年(といっても藤子と2歳しか違わない)。生来の生真面目さと穏やかな性格でみんなから慕われていた。金に困ると寺さんに金を借りた。石森は毎月借りていたが、「君は稼いでいるんだから、もう少し計画的に使いなさい」と諭された。石森のアシスタント役でなかなか芽が出なかった赤塚不二夫がマンガ家としての将来に絶望し、「ボーイになろうかと思うんだけど」と寺さんに相談に行ったところ、「いま、描いているものを見せてごらん」といわれ、描きかけのマンガを見せたら「オレだったら、これで5つのストーリーを作るな」と示唆され、「どうせ金ないんだろう」といいながら、ポンと100円札の束で4万円という大金を貸してくれた。そのとき、赤塚は4ヶ月分も家賃をため、「今月末で出て行ってくれ」と大家にいわれていたのであった。
昭和32年6月、寺さんがトキワ荘を引っ越し、同年12月に結婚し、渋谷に居を構えた。安孫子は『トキワ荘青春日記』の中で「ボスを失ったトキワ荘グループは、この後しだいに、まとまりを欠いていきました」と述懐している。同年、森安が転出。鈴木伸一はその前年、横山隆一のマンガ映画制作会社「おとぎプロ」に就職するために、鎌倉に引っ越している。
「朝七時、勢ぞろいして風ちゃん(鈴木の愛称)を見送る。
漫画から漫画映画への転進! その前途に幸あれと祈って皆でバンザイする。風ちゃん、うしろ姿に余韻を残してサッソーと去る」(『トキワ荘青春日記』)
昭和36年には藤子が2軒続きの家を川崎に買い、赤塚は結婚し、トキワ荘の前のアパートを借りた。最後まで残った石森も37年にトキワ荘を卒業。トキワ荘はただの雑居アパートになった。
その間にマンガ界は激動の時代を迎えていた。昭和34年に『少年サンデー』と『少年マガジン』が創刊。マンガ誌初の週刊誌である。サンデー誌上に手塚と藤子、寺田が連載を持った。翌年、寺田はその連載の『スポーツマン金太郎』で第1回講談社児童漫画賞を受賞。同時に受賞した永田竹丸もトキワ荘通勤組だった。37年には『少年クラブ』、『少女クラブ』が廃刊。代わりに『少女フレンド』が創刊された。月刊誌から週刊誌へ、生き残るためにはマンガ家は量産体制を余儀なくされるようになった。
⬛椎名町とトキワ荘の今昔
椎名町駅から徒歩4、5分。富士見台小学校前の路地に我が家があった。ぼくがここに住んでいたのは昭和37年までだが、うっすらと記憶がある。駅近くの神社の境内で縁日があり、どんどん焼きを食べたこと、ローセキで絵を描いたこと、2軒隣の女の子に「大人になったら結婚したい」といわれたこと……そんな取り留めのないことに思いを巡らしながら歩いてみる。子供の頃はもっと広く見えた路地がやけに狭い。昔からの家が何軒もあり、ぼくにプロポーズした女の子の家もあった。富士見台小学校を迂回しながら、目白通りに出る。すぐに二又交番が目に入った。目白方面から交番を右手に入ると、南長崎ニコニコ商店街がある。引っ越してからも椎名町に親戚が集中していたので、小学生あたりまではよく遊びに行っていた。そういえば、幼児のぼくは若き日の藤子不二雄や石森章太郎と一緒に銭湯につかっていた可能性だってあるのだ。たしかこの近くに昔は銭湯があったはずだが……それにしても、ここの商店街はさびれたな。氷屋、米屋、八百屋、豆腐屋……たしか昔もあったよなあ、とおぼろな記憶をまさぐってみる。左手に中華料理屋の松葉があった。店の前に藤子の『まんが道』を大きく引き伸ばしたコピーがベタベタと貼ってあった。トキワ荘の連中たちはしょっちゅう、この店のラーメンを食べていたのだ。右手の角に立て看板があった。
「マンガの神様」手塚治虫、藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫らが青春時代を過ごした「マンガの聖地」「トキワ荘」跡入り口
昔、トキワ荘はこの路地の奥右側にありました。
路地の奥には日本加除出版の3階建ての社屋が建っていた。トキワ荘が取り壊されたのが昭和57年11月29日。昔年の面影は微塵もない。しょうがないので松葉に入る。小テーブルが4つ、5つ、奥に小上がり、どこにでもある中華料理屋だ。安孫子素雄や鈴木伸一、水野英子らの色紙があった。彼らが出入りしていた頃の先代のご主人は亡くなっていて、往時を知る人は誰もいない。『まんが道』にはトキワ荘に出前を届ける、みんなのアイドル的なお姉さんが登場するが、彼女は嫁いでしまったそうだ。『オバQ』で“小池さん”は必ずラーメンを食べていたが、この店のイメージがあったのではないか(ま、実際は即席ラーメンだったのだけれど)。ラーメン450円。昭和31年当時は40円だった。鶏ガラスープの醤油味、わかめとネギ、玉子にチャシューの入った昔ながらの東京ラーメン。「昔から味は変わってませんよ」とお店の人。『まんが道』では寺さんや藤子たちがこのラーメンを盛んに絶賛するシーンが出てくるが、ま、可もなく不可もなく普通のラーメン。いつも腹を空かせて粗食に甘んじていた彼らには、こんなラーメンでもご馳走だったのだろう。往来に出て、古そうな店に何軒か入り、「トキワ荘にマンガ家たちが住んでいたことを知っていましたか」、「そもそも当時、トキワ荘があったことを知っていましたか」と訊いてみたが、誰も知らなかった。それは考えてみれば当たり前のことだ。彼らは「オレたちはマンガ家だ」と喧伝していたわけはなく、前述の悪書追放運動のように当時、マンガ家は肩身の狭い存在だったのだ。しかも後年のようにメディアに顔が露出することもほとんどなかったろう。藤子も石森も赤塚の顔も誰も知らない。現に子供の頃のぼくだって彼らの愛読者で、椎名町と縁があったにもかかわらず、トキワ荘の存在すら知らなかった。トキワ荘にマンガ家が住んでいたことを知っていたのは、その前まで行きながら尻込みして引き返してしまった少女時代の里中満智子や、「石森章太郎を訪ねる」といって母親に叱られた中学生の池田理代子などごく一部のマンガ家志望者や熱狂的なファンだけだったろう。トキワ荘が一般に徐々に知られるようになったのは『まんが道 青雲編』が『少年キング』に連載された昭和50年代以降のことだ。やがて、NHKの銀河テレビ小説やNHK特集、フジテレビのアニメ、果ては映画にもなり、マンガファン、マンガ家志望者のメッカとして、その名前は轟き、観光バスまでやって来るようになった。それを商店街が利用した。おそらく松葉だって、『まんが道』を読んで初めてそういう店だったと思ったのだろう。二又交番寄りのもう一本向こうの道を左折する。当時の地図をもとに落合電話局のあった場所を探した。彼らはこの前の公衆電話ボックスで出版社や故郷の家に電話をかけ、また編集部からの電報を落合電話局からもらっていた。電話局前にトキワ荘正面玄関に続く路地がいまもあった。現在は個人宅なので入ることはできないが、ブロック塀に囲まれ、苔むした石が点々と置かれた狭い路地が奥まで伸びていた。
⬛寺さんの断筆の謎と最期
トキワ荘の中心メンバーはほぼ同じ年頃で亡くなっている。手塚治虫、寺田ヒロオ、藤本弘(藤子・F・不二雄)は61歳、石森は60歳、森安なおやは62歳、そして赤塚不二夫は病に倒れ、いまなお意識不明の植物状態である。寺田と森安を除けば、極度の過労がその死期を早めたのではないか。寺田は結婚後しばらくして昭和35年、茅ヶ崎に広大な敷地を持つ新居を構えている。最盛時は週刊・月刊の連載11本、平均睡眠時間3時間弱、アシスタントを雇わず、たった1人でマンガを描き続けた。『トキワ荘の時代』に寺田自身の証言がある。
「週刊誌ができて三〜四年してから、目に見えて内容が変わってきたんです。具体的には、えげつなく、どぎつくなっていったといえばいいでしょうか。モーレツ時代へ突き進んでいくわけです」
寺田はマンガ誌の“人気投票”を激しく嫌っていた。
「人気が上がったの下がったのと、うるさくいうのでは描きにくくてしかたない。そんなにぼくの考えている子どもマンガのイメージがだめなら、やめさせてくれとまでいったんです」(同前)
昭和38年、寺田は連載5年目の『スポーツマン金太郎』を、自ら「疲れ果てた、描くものがなくなった」といい、降板している。『少年サンデー』編集部から「ならば別のスポーツものを」と懇願され、『暗闇五段』を描いた。これが最後の長期連載となった。以後、週刊誌に描いた作品は昭和40年の読み切りと、43年の短期連載の2作品だけ。学年誌に連載を持っていたが、それも48年初頭に終了。寺田はひっそりと児童マンガの世界から退場、以後、筆を折った。トキワ荘の仲間や編集者が何回も再起を促したが二度と筆を取ろうとしなかった。寺田の作品は児童マンガの王道だった。ほのぼのとした作風、重厚なストーリー作り……一方、マンガ誌はエログロナンセンス、暴力、スリル……刺激を求めてエスカレートしていった。寺田のマンガは時流に合わなくなった。寺田にとってみれば「雑誌が汚くなったから」。石森は『背番号0』の解説で「時折、自分の生き方が、イヤになることがある。寺さんの生き方を見るからである」と書いている。藤子不二雄曰く「静かな自殺」。赤塚は「想像力が枯渇したのではないか。そうとでも思わないと、(筆を折ったことが)説明が付かない」といったそうである。いずれにせよ、寺田の断筆は仲間内でも謎のままだった。
亡くなる1年ほど前(平成3年)、藤子不二雄両名、石森章太郎、鈴木伸一の4人が、久しぶりに茅ヶ崎の寺田宅へ行き、トキワ荘の宴会さながらにどんちゃん騒ぎをした。寺田は終始、楽しそうにニコニコしていた。安孫子素雄は『トキワ荘青春日記』のあとがきでそのときのことを振り返っている。
「寺さんは門の前まで出てきて、温顔で見送ってくれました。寺さんのお宅の前は長い通りになっています。その途中、何度振りかえっても、寺さんは手を振っています。とうとう角をまがるとき、ぼくが振りかえると、もう小さな影になった寺さんが、まだ手を振っていました。そのときぼくは、なにかこれが寺さんとの最後の別れのような気がしたのです。あとで奥さんに聞いたのですが、その次の日、奥さんに寺さんは『これで思いのこすことはない』と言ったそうです。そのあと寺さんは、ぼくらが電話をかけても、いっさい出ようとはしませんでした。そして、一年後、寺さんは亡くなりました。その報(しら)せを聞いたとき、なぜかぼくは『ああ! やっぱり……』と思いました。そして、あの茅ヶ崎のお宅の前で、いつまでも手を振って別れをつげていた寺さんのシルエットが浮かんできて、涙がとまりませんでした」
同行した鈴木伸一さんはこのときの様子をビデオに撮っていた。「それを送ったら、死後、奥さんから聞いたんですが、寺さんは部屋に籠もってずっとそのビデオを見ていたそうです」トキワ荘通勤組だった長谷邦夫は『漫画に愛を叫んだ男たち』の中で、寺田の死に際し、盟友の赤塚との会話を記している。
「酒を飲み続け、食事をろくに摂らぬ生活を続けた末の衰弱死だ、と赤塚は言った。
『手塚先生の本葬のとき、奥さんが彼の代理で来てたんだよ』
『そうだったのか。ぼくは顔を知らないから……』
『うちの人の生活、どうしたらやめてくれるんでしょう。赤塚さん助けてくださいって言われたんだ。でも、おれに助けろと言われても、おれ自身が依存症だものなあ……』」
寺田はどんな思いで死んでいったのか。ぼくはトキワ荘時代や『漫画少年』があった頃の思い出に沈潜していったような気がしてならない。断筆後の昭和56年、寺田は自ら『漫画少年史』を編纂しているし、同誌の名編集長だった加藤謙一(昭和50年逝去)のもとにはたびたび訪れていた。前出・丸山昭さんが語る。
「トキワ荘の連中があの時代を懐かしむのは単に懐古の情だけじゃないんです。マンガが産業になる前の時代、社会から叩かれ、認知されはじめてきた初期の時代を一つ屋根の下で生きてきた、その共有感は何ものにも替えがたいんじゃないでしょうか」との言葉にぼくは深く頷いた。
最後にトキワ荘解体に際し、寺田が発したとされる言葉をトキワ荘へのオマージュとしよう。
トキワ荘は解体されてもいいんです。トキワ荘は心の中に生きていますから。
参考資料
『トキワ荘の時代』(著:梶井純/筑摩書房)
『トキワ荘青春日記』(著:藤子不二雄/光文社)
『トキワ荘実録』(著:丸山昭/小学館)
『章説・トキワ荘・春』(著:石森章太郎/講談社)
『トキワ荘青春物語』(蝸牛社)
『二人で一人の漫画ランド』(著:藤子不二雄/廣済堂)
『藤子不二雄A  夢と友情のまんが道』(著:藤子不二雄A/講談社)
『漫画に愛を叫んだ男たち』(著:長谷邦夫/清流出版)
『マンガ家誕生。』(筑摩書房)
『「漫画少年」物語 編集者・加藤謙一伝』(著:加藤丈夫/都市出版)
『トキワ荘のヒーローたち』(豊島区教育委員会)
『トキワ荘の青春』(著:石森章太郎/講談社)

Facebook
https://m.facebook.com/groups/635946949820666?view=permalink&id=3129260160489320