上野日活館





東洋一を誇る日活撮影所 / 石原裕次郎専科
上野日活館
〔東京・直営〕603席

石原裕次郎専科








1956
広小路には,松坂屋の他にも老舗名店はかなりある。
刃物の「菊秀」,御座敷洋食の「たぬきや」,呉服の「赤札堂」,洋食の「サンキヨウ」,パンの「永藤」,「京成聚楽」といったところである。
お茶の「内田園」「松栄寿司」はサンキヨウの横をちょっと入ったところに向かい合っている。
電車通りの向かい側には福神漬けで有名な「酒悦」と寄席の「鈴本」がある。
松坂屋の前の「風月」と「うさぎや」はお菓子で知られた店である。
散歩もこの辺でお昼にするのが決まりであろう。
しかし無駄に時間を潰すのも惜しい。
「永藤」自慢のたまごパンをぱくつきながら店の歴史を聞いてみる。
「永藤」の先代は「万屋」と言って上野でタバコ屋をやっていたのだそうで,それは明治37年のタバコ専売法の後振りだめになった日露戦争の真っ最中である。
翌年には広がっ先輩となり翌々年の明治39年には鉄道国有法が公布されるといったような時代だった。
資本の集中と独占が急テンポで進められていく中で,先代「万屋」はタバコ屋稼業をやめて新しい人生の岐路に立たされたわけだ。
何に転業するかが問題であった。
彼は毎日弁当箱ぶら下げて上野から新橋方面を歩きまわった。
薬屋かパン屋かといろいろ迷った挙句,銀座の「木村屋パン店」に人だかりがしているのを見てパン屋だと腹を決めたと言うのである。
「永藤」に比べると福神漬の「酒悦」は家業相伝何百年かの歴史を順調にたどってきたようである。
酒悦の当主・堀江氏の話によると,創業は延宝年間で,大体カラスミ・ウニ・イリコ・乾海苔・茶といった食味を扱い,幕末・維新の頃は香炒茶屋を営んでいた。
海苔の佃煮と福神漬を発明して売り出したのは15代清右衞門で,明治16年頃だと言う。
そうなると福神漬けの元祖が川村端賢だと言う説が怪しくなる。
そこで福神漬け命名の由来を聞いてみた。
もともと漬物と言うものは春夏秋冬をとら問わず食べられるいたって簡素な食べ物である。
かくのごとく質素倹約すれば福が舞い込む。
当時弁天様の池之端で営業していたのと,七色の品を取り合わせたので「七福神」にあやかって「福神漬」と命名した。
それにはちゃんと生き証人もいると言う。
それそれはともかく問題は現在の福神漬けの運命になる。
「しかし日本の食生活も最近は変わってきたし,これからもこれからも変わっていくだろうと思いますが」と切り出すと,
「つまみ物物ですね」。と相手は動ずる色もない。
カレーライス・チャーハン等の口直しにはなくてはならない品物だと言う。
「いまどきの若い人たちはぬかみそに手をつけるの嫌いますよ」。
商売その道によって賢し。
正にとどめの一言である。
さもあらばあれ,海苔の佃煮や福神漬が国民大衆の食膳にに普及し,高級な酒悦の製品がその販路を確保するに至るのは,漬物を缶詰にすることに成功した時からであろう。
その時がいつ出だったか聞き漏らしたが,永藤の先代が弁当箱ぶら下げて新橋銀座を知らん顔して歩き回っていた頃とそんなに時代は隔たっていないのではあるまいか。
福神漬の歴史も,パンの歴史も,近代日本の歴史のひとこまではある。
鈴本にも寄ってみたいところだが夜席座席は改めて出直すことにして上野の山へ登っていこう。
ー東京歴史散歩,河出新書,高橋真一

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