[東京浅草]陵雲閣





















































浅草12階
#百貨店デパート
明治23年(1890)に出来た凌雲閣は通称を12階と呼ばれ当時東京市中を一望できる最も高い建物であった。
高さ67m、10階までは八角形のレンガ造りで、その上の11,12階は木造であった。
また8階まで日本最初の電動式エレベーターも取り付けられた。
しかし、故障続出のため2年後には撤去されている。
建物の設計者は英国人のW・K・バートンである。
初代社長は江崎礼二。
浅草のシンボルであった12階は大正12年(1923)の関東大震災で途中の8階から折れ、その後工兵隊により爆破された。


旧道行脚
http://www.geocities.jp/kikuuj/chizu-zatu/12kai/12kai.htm






明治44年の地形図
浅草12階は浅草東映の西北約50mの地点にあったといわれ、上段左図ではあかの線で囲まれた部分にあたる。
明治44年地形図と現在図(緑線)を合成
当時と道路の区画は変化しており、わかりにくいので当時の地図と現在図を重ねてみた。
12階があった辺りには案内板や碑も無くただの裏通りにすぎないのは少し寂しい限りである。
突き当たりの浅草東映の裏手に12階はあった。
明治44年の地図を見ると凌雲閣の文字の左下に常設国技館の文字がある。
明治45年に出来たものであるが国技館として機能した時期は短く大正3年には売却され遊楽館となっている。

旧道行脚
http://www.geocities.jp/kikuuj/chizu-zatu/12kai/12kai.htm




















 「凌雲閣」は千束町2丁目にあった八角総煉瓦造りの塔。
高さ220尺。
明治23年(1890年)10月に落成。
大人6銭,軍人子供3銭の入場料で市内を眺望させていた。
浅草に遊んだ石川啄木も,
  浅草の 夜のにぎはひにまぎれ入り まぎれ出で来し さびしきこころ
  浅草の 凌雲閣にかけのぼり 息が切れしに とび降りかねき
と歌っている。
―高橋真一,新東京歴史案内,

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1889
祭日の状況
昨日16日は地獄の東門を押し開いて,娑婆に遊びに出た亡者どもがのんのんと立ち戻り,引き換えに閻魔大王は娑婆へ出掛けて一稼ぎと言う「盂蘭盆[うらぼん]」のお仕舞日。
市中一般の丁稚小憎どもは太陽より先に起きて「薮入」をするよりも第一にめざましく賃銭を取り上げしは,人力車馬車さて薮入連の遊技場は浅草・上野・芝の公園,芝居は吾妻座を始め,常盤座,ちょっと離れて柳盛座,浄瑠璃座,ずっと離れて麻布の開盛座,高砂座,盛元座,いずれも小僧連相応のお芝居ゆえ,各純座[ほいざ]とも午前の内客留め。
浅草寺仁王門楼上は,大人1銭,子供5厘にて,登楼を許せしゆえ,午後2時ごろまでに1万余人登楼人ありと,同公園内の写真屋は如何様と言う。
硝子取の客すこぶる多く,氷屋の店は約27軒もできたり,楊弓場,大弓場は大小僧・中小憎連がアヤメの前に引きずり込まれて,いよいよ隊長の声を嬉しがる。
いずれの飲食店も5・6日の不漁に品払底を告げながら,来客は去年に2倍なり。
ちょっと離れて王子辺には大小僧・中小憎連が随分出かけ,海老屋・扇屋なども明間のなき景気なりと。
閻魔大王の景気と言うに,
小伝馬上町の見世,
茅場町の見世,
深川亀住町法乗院の見世,
下谷常楽寺の見世,
浅草蔵前の見世,
浅草正智院の見世,
千住勝専寺の見世,
両国回向院の見世,
をはじめ,四ツ谷太宗寺の本店まで,あたかも好天気ゆえ,いずれも出商人おびただしく,参拝も群集したり。
またちょっと離れて新吉原廓は中小の貸座敷に大小憎・中小憎の浮かれ込み多く,日中より脂汗を流して騒いでいるものもあり。
洲崎郭も今年は殊の外景気好く,一昨年よりも昨夜にかけては,なかなかの賑わいなり。
その他興行場は,
回向院のウオジャーの曲馬,
弁天山の大象,
浅草花やしきのジオラマ館
なども大入,諸処の昼寄席も総じて去年より景気好き方なると言う。
ー朝日新聞,1889.7.17号

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1890
浅草六区興行街
言問橋をわたってきたトロリーバスが,猿若町の入り口の隅田公園前をすぎると,つぎは馬道,それから浅草観音の停車場につく。
ちょうど観音堂の横から後ろにあたるこのあたりは,かつて樹木が鬱蒼としげり,その周辺に手品・居合・独楽まわしをはじめとする曲芸・雑芸など多くの見世物が,小屋掛け・御簾掛けで客を招いていた「浅草寺奥山」の跡だ。ここが「奥山」とよばれるようになったのは享保2年(1742年) 以降のことらしく,それ以前は単なる遊山地帯で,しだいに娯楽地帯に変わっていったようだ。
「奥山」は現在の浅草六区興行街の先駆というべきものだが,明治にはいるとこの界隈もガラリと様相を変えるにいたった。
すなわち,明治6年6月の「太政官布告」による,日本初の公園地設定がそれで,浅草公園は7区に区画された。
奥山付近は5区となり,6区は瓢箪池の西側,つまり凌雲閣があったところから映画街のはずれの日本館にいたるまでの間で,
明治17年(1884年) 11月に開業された。
―高橋真一,新東京歴史案内,

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1923
関東大震災
古い浅草の目印-12階の塔は大正12年(1923年)の地震で首が折れた。
私はまだそのころは本郷に下宿住まいの学生だった。
昔から浅草好きの私は、11時58分から2時間と経たぬうちに友達と浅草に様子を見に行った。
上野の山の人の噂では、
「驚くじゃないか、江ノ島が瓢箪島に浮いているっていう話だ」。
「見物客が大勢上っていたんだからたまらないや。皆振り飛ばされたさ。
今じゃ瓢箪池に死骸がうぽうぽ浮いてるって話さ」。
道端に卵の箱が沢山捨ててあった。
私たちはそれを盗むでもなし、拾うでもなし、買うでもなし、
6,7個も飲んだものだ。
浅草寺の境内には避難者があふれていたが、
吉原の遊女や、浅草の芸者が目だって、崩れた花畑の色だった。
-川端康成,浅草紅団(新潮文庫)

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1923
関東大震火災
大正12年9月1日正午2分前、東京・伊豆・千葉一帯を襲った関東大地震は、一瞬にしかも広範囲にわたる災禍をもたらし、関東一円を混乱におとし入れた。
4・1地震の惨害
早朝に二百十日の暴風、それに続いて大地震、大火災高潮の来襲と相つぎ、
2日間の火災で東京市内の59パ-セントが焼け、横浜市と横須賀市は全焼、その他の小都市には全壊・全埋没などが多数あった。
東海道線生麦付近乗越線京浜電車線の破壊状況 小粥敏広
 破壊的地震は最初の12時間内に114回、次の12時間に88回、翌日の24時間が107回、
地震計にのみ感じたものを加えると3日間で1,700 回、最大時の震幅12cm、波動18cmにおよび、次第に間隔は遠のいたが連日連夜揺れていた。
全く地震を感じなくなった日がはじめて訪れたのは40日の後である。
9月1日正午以降に交通杜絶した鉄道線路は数えあげるいとまもなく、横須賀駅において女学生200余名の修学旅行団が列車とともに埋没して2週間も放置され、
臭気甚だしく、蝿が群をなして蝟集するという惨状もあった。
4・2 施設の破損 
省線電車線は地震と同時に道床と架線を破壊され、瞬時にして全線不通となり、
立往生汽車48本182両を算し、さらに3日間にわたる沿線の火災によって架線・変電所・送電線・駅舎などの施設を焼損し、
車両8組成31両を失い、各電車庫において留置中の電車4両を破損している。
また城東地区本所在の汽車会社東京支店の類焼によって新製中の電車車体9両分も失われた。
電車線と電気施設の被害概要は以下の通りである。
京浜線は市内高架部分と横浜市高架に区間が特に甚だしく、
有楽町-新橋間高架橋台の傾斜、
有楽町-田町問の道床沈下とき電線架線焼失、
品川-蒲田間の堤崩壊道床沈下、
大井町-東神奈川間の断線、
横浜‐桜木町間高架線の道床沈下と架線焼失
などである。
中央線は東京-万世橋間高架橋台傾斜と架線焼損、
御茶ノ水-水道橋間切通し崩壊、
水道橋-牛込間の架線とマクラ木焼失、
牛込-四ツ谷間の崩壊
が主なものである。
山手線は品川-大崎間断線、
大崎-目黒間崩壊、
目黒-恵比寿間
代々木-新宿間橋脚破損、
新宿-新大久保間新専用線の道床沈下、
鶯谷-上野間の沿線類焼
などがある。
駅舎の焼失は、
有楽町・新橋・浜松町・神奈川・横浜・桜木町・神田・万世橋・御茶ノ水・水道橋・飯田町・鶯谷・上野、
また倒壊駅は牛込・荻窪、沈下破損駅は五反目・恵比寿・代々木の各駅だった。
焼失駅舎は当分の間機能を失い、中には万世橋のように焼死体仮収容所に充てられた所もある。
電車庫の被害は、
品川庫地盤沈下、
道床亀裂、
中野庫建物破損、
東神奈川庫建物傾斜、
蒲田分庫地盤沈下、建物折損、池袋分庫ピット全壊がかぞえられた。
電化施設の損害は、
矢口発電所大破、
永楽町変電所全焼、
川崎変電所倒壊、
大久保変電所大破
したが、大井町・田端・吉祥寺の各変電所は損害軽微だった。
4・3 地震当時の電車運用
地震発生の際に運用されていたために立往生、運行不能となった電車は次の通りである。
○京浜線下り線
桜木町-東京間5両編成7本(823~835列車)、
823~831は東神奈川-品川同にあって無事。
833と835は東京駅にあったが同じく被害はなかった。

国鉄電車発達史(運輸と運転)
http://ktymtskz.my.coocan.jp/yuge/a2.htm















1923
焼失した万世橋駅ホーム 弓削進
水道橋-御茶ノ水間の線路崩壊 小粥敏広
避難所となった横浜駅構内 弓削進
立ち往生電車と線路を歩く避難民 弓削進
○京浜線上り線
東京-桜木町間5両編成6本(824~834列車)、
824は東京駅、826~830は大井町-東神奈川間にあっていずれも無事。
832は桜木町出発直後に脱線傾斜したまま類焼、834も同駅駐車中で類焼。
○山手線上り(内廻り)線
「の」の字運転で東京から中央線に乗入れると内廻りが下りに変るので、これを内廻りと仮称する。
中野ー上野間3-4両編成11本(318~338列車)
全部上野発中野行で、うち5本が4両編成だった。
318~322は中野-市ヶ谷間にあって無事、
324は神田駅で類焼、
326は新橋-浜松町問で類焼、
328~336は品川-日暮里間にあって無事、
338列車(319の折返し)は上野駅で焼失した。
○山手線下り(外廻り)線
上野-中野間3-4両編成11木(321~341列車)全郎中野発東京経由上野行で、うち4両編成が8本だった。
321~331は鶯谷‐田町間にあって無事、
333は有楽町-新橋問で3両焼失、
分離の上人力搬送した先頭の1両も新橋駅で類焼、
335は水道橋駅で焼失、
337・339は四ツ谷‐東中野間にあって無事、
341(316の折返し)は中野駅にあって難を免れた。
○山手(赤羽)上下線
池袋-赤羽間小運転3両編成2本(40、41)、十条‐赤羽間で停止したが健在。
○中央線上り線
「の」の字運転をせず東京-国分寺間折返し専用の純粋な中央線電車。
上り運行中は東京‐国分寺間3両損焼5本(80-83、94列車)だった。
これらは中野-東京間を「の」の字用運行と交互に走っていた。
80は万世橋、
82以下は市ヶ谷-吉祥寺間にあったが、全編成とも被害はなかった。
94(69の折返し列車)も国分寺に停車中で無事だった。
○中央線下り線
国分寺-東京間3両編成6本(77~85列車)、
77~81は阿佐ヶ谷-四ツ谷間にあって無事。
83は飯田町駅で類焼、
85(78の折返し)は東京駅にあったが無事だった。
災害勃発時の運行電車数の合計は48本182両で、
被災車は8本31両におよんだわけである。

国鉄電車発達史(運輸と運転)
http://ktymtskz.my.coocan.jp/yuge/a2.htm








1928
古風な博覧会
萩原朔太郎
かなしく、ぼんやりとした光線のさすところで
円頂塔(どうむ)の上に円頂塔(どうむ)が重なり
それが遠い山脈のほうまで続いているではないか
なんたるさびしげな青空だろう
透き通った硝子張りの虚空の下で
あまたのふしぎなる建築が格闘し
建築の腕と腕が組みあっている
このしづかなる博覧会の景色の中を
かしこに遠く、正門を過ぎて人々の影は空にちらばる
なんたる夢のような群衆だろう
そこでは文明の不思議なる幻燈機械や
天体旅行の奇妙なる見世物をのぞき歩く
さうして西暦1810年頃の巴里市を見せるパノラマ館の裏口から
人の知らない秘密の抜け穴「時」の胎内に潜り込む
ああ、この消亡を誰が知るか?
円頂塔(どうむ)の上に円頂塔(どうむ)が重なり
無限にはるかなる地平の空で
日差しは悲しげにただよっている
―萩原朔太郎詩集,1928年初刊,
―日本の詩歌11-萩原朔太郎,中公文庫,1978年刊,

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