東京美術学校






1942
1942年、太平洋戦争は、まだ日本軍の優勢がつづいているようでしたが、
日に日に戦時色が濃くなってゆき、
「ほしがりません、勝つまでは」
の時代になってゆきました。
もう次の年からは浪人ができなくなるという噂が予備校でひろがっていました。
「徴用令」というものが出来て、仕事をもたないものは引っ張られて軍需工場などで強制的に働かされるというのです。
そんなところで働かされては大変だとあわてて受験勉強をしていました。
高校は、現在の高校と違って全国に25校しかなく、高校生はバンカラを売り物に、
黒マントをひるがえし、白線のはいった帽子をかぶり、下駄を鳴らして歩いていました。
大学生も、ほとんど、上が四角になった角帽を頭にのせていました。
その帽子の形や記章でどこの大学かわかったものです。
ですから、自分が通っている大学をひけめに感じている気の弱い大学生などは、帽子の帯紐で校章をかくしたりするのを見かけたものです。
いくら一流校だといっても、製品管理がゆきとどいて皆同じ学生を作り出しているわけでもないのに、制服や制帽を見て中身の人間まで一流だ三流だと決めてしまう風潮もありましたから、それが日本帝国主義の名残りではなくとも、やめてしまったほうが良いとも思うのです。
でもそのころの私は、情けないことに、日本中の高校の校章を全部知っていて、あの高校は易しそうだとか、あの高校の校章はデザインがわるいからこっちの高校にしようとか考えていたのです。
再び受験した松江高校に落ち、神に見放されたと悲嘆にくれていました。
しかし捨てる神あれば拾う神がいたのでしょうか、東京美術学校から合格通知がきたのです。
わたしの入った建築学科はたった14人でした。
当時の東京美術学校は、明治時代の様子をのこしていました。
正面を入ると、大きなくすの木の下に岡倉天心の銅像があり、その奥の本館は、寺の山門ような太い木の柱で、
ギシギシきしむくらい廊下を行くと、明るいホールにミケランジェロやロダンのすこし黄ばんだ石膏像が、そこにいるのが当然のような顔をして立っていたり、座って考え込んでいました。、
―モグラの歌―アニメータの自伝,森やすじ著,アニメージュ文庫

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1947
戦後、学制がかわり、東京美術学校はなくなりました。
そして、私が在学中に「芸術大学」という大げさな名前の学校がうまれ、
追い立てられるように卒業させられてしまったのです。
あれから30年。近くの美術館や動物園には寄っても、学校はのぞいてみた事がありません。
あの隣の動物園の仕切りを取ってしまっても良いのではないかと思うほど、異様な男がウロウロしていた校庭に、
いまはもう高い競争率で多くの人に祝福されて入学してきた男女の大学生が
さわやかなGパン姿で歩いているのをみれば、それはそれで悲しい風景ではないか、と思うからです。
―モグラの歌―アニメータの自伝,森やすじ著,アニメージュ文庫

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2014