[群馬高崎] 喫茶「あすなろ」
喫茶店
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2006/6/4(日) 午後 3:29
昭和“音の風景”
さて―――――僕のファースト珈琲は何時のことだろう。
多分、エレキバンドの仲間と行ったオシャレデパートのとこの「ナポリ」か。否そうではない。
昭和四〇年も明けたばかりの頃恐る恐る、胸を高鳴らせ始めて入ったのが本町三丁目の「あすなろ」ではなかったろうか
(間違っていたら乞う連絡)。
たしか、やはりエレキバンドの先輩に連れて行ってもらったような記憶がある。
その「あすなろ」はもうひとつ、鞘町の学陽書房の隣あたりに映画館と並んであったように憶えている。
何でもその「あすなろ」はクラシックを専門に聴かせる「音楽喫茶」で、リスニングルームも確かあったのではなかっただろうか。
本町三丁目のそれとは大分趣を異にしていた。
時にはそこ「あすなろ」では群響の楽団員の人たちがコンサートをやっていた。
もとも僕の場合はクラシック、交響楽と言った高尚な芸術はチンプンカンプン。
なにせ、その頃は「エレキ」に夢中で誰と行ったのか、いや、誰に連れて行ってもらったのかさえ全く憶えていない。
ただ、一、二度、入ったような気がするだけだ。
僕はもっぱらその手前、うなぎの「銀直」の隣辺りの、床屋の二階の喫茶「コンパル」だった。
エレキバンドで出演していたダンスホール「みゆき」の休憩時間にはいつもメンバーとそのコンパルへはよく通った。
そうだ、連雀町だったかの噴水のある「喫茶ローマ」。
そこには早い時期、昭和40年頃から高経のハワイアンやらウエスタン、フォークソングをやるバンド演奏をやっていた。
うなぎの寝床のような間口2軒ほどの細長い店だったが、その一番奥まったところにステージのようなものがあったように憶えてる。
そうした意味では古きよき時代だったのかもしれない。
■あの頃の喫茶店
駅前の「喫茶うえの」・・・カウンターだけの小さな喫茶店。
その隣には「キングバー」なんていうのもあった
ロータリーの所には、「喫茶ブリッジ」。
ジャズを専門に聴かせる「モーニン」なんて言うのも・・・・・
八間道路の「喫茶モリエ」・・・ここは僕が小学校の時から在った。
同級生のお母さんがやっていて・・・どう言う訳か「アベック」と言う徒名でそいつを囃した覚えがある。
兎に角、「喫茶店」と言うと、「アベック」を連想させた。
あの頃は「同伴喫茶」なるものも流行った。
まだ町には車などそうは走ってはいない時代だったし、流行かどうかは知らないが僕らが色気づいた頃は「連込み」。
いわゆる「さかさくらげ」と言うやつだったが、まだ僕らはその「連込み」に入る歳ではなかった。
ませた同級生や先輩から話を聞くのが精々で。
もっぱら僕らは「キャンドル」、「キャメル」、「マーセル」など等と、若い男女の秘め事に重宝させてもらっていたようだ・・・・・
チョイト気恥ずかしいが(笑)。
話は変るが、実は僕は「珈琲」とやらが全く駄目。
今まで正直な所そのコーヒーとやらを「飲んだ」と言う記憶はない。
今まで一切口につけない・・・なぜか判らない。
あの「珈琲」の香は嫌いではないのだが(好きではない)、仕方なしに飲まされると胸焼けが酷いのには閉口する。
ついでに、「タバコ」も生れてこの方吸ったことがない。もちろん、未成年の時は特訓をしたがその成果はなかった。
アルコールはその限りではないが・・・・・
「喫茶店」と言えば・・・もう昔からのそれはあまり見られない。
あまりと言うかほとんどなくなっているのではないか。
一時隆盛を極めた、喫茶「いわと」、さきの名曲喫茶「あすなろ」・・・・・
今も昔をしのばせるのは柳通りの「ゲレンデ」くらいだろうか。
ここは古い・・・・・とは言っても昭和40年代の中頃からだろうか・・・・・
マスターが中々の男前で「お水」のお姉さん達の憩いの場であったようだ。
僕がニュージャパンでドラムを叩いていた頃はもっぱらお堀端の喫茶「プリンス」か、その同伴喫茶の「キャンドル」。
その「キャンドル」、二階席が同伴専用席になっていた。
昭和47年頃はモータリゼーションか、既に「同伴喫茶」の趣も薄れ、店によってはスナック喫茶風に趣を変えていった。
柳川町のど真ん中には「スクール」なんて言う喫茶、田町通りの喫茶「アラスカ」、新町の「くらくら」、
今のさやモールの「コンパル」など等・・・・・・
移ろいの風物「たかさき」と言うところだろうか。
KINEZUKA倶楽部
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