1950s
1970s
1930
絵看板職人・津村英雄と幻灯機
#映画館
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大阪の絵看板職人・津村英雄は,絵看板製作が変わっていく転換点に立っていた。
津村の時代,つまり大正後期から昭和初期は絵看板の需要が増えた時代であって,津村たちもそれに対応せざるを得なかった。
そこで新しい工夫が生まれて絵看板も変わっていたのであった。
大正時代半ばに独立した津村は大阪千日前の絵看板などを手がけていた。
看板を制作していた職人たちは文字看板を書く一般のペンキ職人とは異なる絵画の専門家で,「絵師」や「画工」などと呼ばれていた(明治大正大阪市史第3巻,1934年)。
津村の時代,つまり大正後期から昭和初期は絵看板の需要が増えた時代であって,津村たちもそれに対応せざるを得なかった。
そこで新しい工夫が生まれて絵看板も変わっていたのであった。
大正時代半ばに独立した津村は大阪千日前の絵看板などを手がけていた。
看板を制作していた職人たちは文字看板を書く一般のペンキ職人とは異なる絵画の専門家で,「絵師」や「画工」などと呼ばれていた(明治大正大阪市史第3巻,1934年)。
当時大衆娯楽の中では活動写真の勢いが盛んになって,昔昭和初期にサイレントからトーキーへの移行が実現すると,活動写真は娯楽の王座に着いた。
活動写真館が増えて,その外観を飾る絵看板の需要も高まって行ってきた。
津村には弟子が18人もいたが,殺到する注文を捌けないこともしばしばだったようである。
そこで津村に与えられた課題はどのようにして迅速な製作システムを確立して大量生産を可能にするかと言うことであった。
その課題を解決する方法は「幻灯機」を用いた作画方法であった。
その課題を解決する方法は「幻灯機」を用いた作画方法であった。
幻灯機はスライドのような機能を持った装置で,写真や絵を投影することができる。
津村が用いた幻灯機は前面にレンズがついた小箱で,天板がガラス面になっているものである。映したい写真をガラス面に載せれば中に仕込まれたランプと鏡によって像が屈折して,全面のレンズで拡大されてスクリーンに大きく投影される。
スライドのようにポジフィルムを使う必要はなくて,絵看板制作の場合は映画のスチール写真やポスターをそのまま使えばよい。
これを板に貼られた用紙に投影して,墨や鉛筆で人物の輪郭をとれば下書きは格段に速くなるし,顔が歪んで描かれる事もなくなる。
この幻灯機は津村自身が作り出したのだという。
この幻灯機は津村自身が作り出したのだという。
河野さんもそう語っていたし,弟子筋にあたる三好慶男・宮崎一英も戦後のことであるが,津村が
簡単な箱にレンズを取り付けて原動機を自作している姿を見たと語っている。
津村はレンズにも強いこだわりを持っていて,ツァイス社製のレンズをいくつも持っていたり,東京へレンズの特注を依頼していたらしい。
おそらく戦前も試行錯誤を重ねながら仕事に適した装置を作っていたのだろう。
もちろん当時の装置はボーッとした像しか映すことができずに,目鼻の位置がつけられる程度であったが,それでも白紙に下書きするのに比べると格段の進歩であった。
この相違によって製作のスピードアップを実現したが, 下絵の正確さは同時に巧みな似顔絵を産むことになった。
この相違によって製作のスピードアップを実現したが, 下絵の正確さは同時に巧みな似顔絵を産むことになった。
高野さんによると,戦中から戦後にかけて津村の絵は顔が似ていると評判をとっていたらしい。絵看板の世界では現在に至るまで幻灯機を使った製作法が受け継がれている。
−「看板の世界–都市を彩る広告の歴史」,船越幹央,大功社,
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2000s
有楽座
当初は演劇の劇場でしたが、昭和26年から映画専門劇場となりました。
比較的スクリーンの小さい日比谷映画に対し、70mmの大画面映画等に対応し、座席数も東宝の常設映画館の中では最大だったと思います。
日比谷映画と同時に閉館しました。
音楽・映画・生活雑筆
http://www7b.biglobe.ne.jp/~mymisc/shiryou/shiryou2.html
http://www7b.biglobe.ne.jp/~mymisc/index.html
1967
日比谷交差点から有楽町を回る。
まず交差点と国鉄ガードの中間から右に入ると映画館街である。
日比谷映画,
遊楽座,
東宝会館,
宝塚劇場
などが並ぶ。
映画館や劇場は,この地区ばかりではなくて,ガード向こうに
日本劇場,
ピカデリー劇場
などがあって有楽町駅西側,丸の内に
日活,
帝国劇場,
その他
が群立して有楽町全体が大アミューズメント・センターとなっているのである。
有楽町界隈が浅草の向こうを張って映画興行の中心になりだしたのは,昭和4年ごろからであったが,特に戦後は大映画館ができて,
浅草が庶民の娯楽街,
新宿の学生と郊外に住むサラリーマンの娯楽街
有楽町一帯の官庁街とビル街,ホワイトカラーやオフィスガールの娯楽街
である。封切館ロードショーが多く,シネスコ,シネラマもこの地区で始められて,最近発達の70ミリもこの地区で好評を受けている。
そして邦画6社はじめ洋画の配給会社がこの付近に集中して映画の動向を探っている。
特色としては, 20館以上ある映画館のうちで東映系の封切館がないことだったが,東映は西銀座に東映会館を立てて,有楽町アミューズメント・センターの仲間入りを果たした。
しかしテレビ映画の人気とともに今後この地区にどのような変化が起こるのだろうか。
都電の丸の内側を回る。
まず巨大な
日活国際会館
がある。昭和25年,まだ日本が戦争の痛手から立ち上がれない頃,潜函工法を進めて世間の話題になったものである。
潜函工法としてこの建物は日本建築学会費を受賞している。
しかし潜函工法で有名な建物で有名な建物はここだけではない。
その近く堀の端に面し建っている第一生命ビルはわが国最初の潜函工法で作られたビルで,地下200mを超える第三紀層の上に築かれている。
ナチスドイツ風様式ではあるが,終戦後占領軍のお気に召してマッカーサー元帥の占領政策の本拠になったのも不思議な因縁であった。
大ビルが日比谷交差点から丸の内一帯に続くが,その案内は次回にして外を回る。
ー東京風土記/城西・城南編,サンケイ新聞社編,現代教養文庫,1967年
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