[東京浅草][link data] 浅草六区再開発




アジア人の大衆エンタメへ 浅草六区再開発の狙い
週刊ダイヤモンド編集部
2013年7月10日
マルハン松竹六区タワーにデザインされる凌雲閣はかつてのような展望台ではない
かつて日本一の歓楽街とうたわれた「浅草六区」。
松竹の子会社が運営していた浅草中映劇場跡地の建て替え後の姿が最近、明らかになった。
その名も「マルハン松竹六区タワー」。
地下1階、地上8階建てだが、1~3階が遊技場で、劇場はその上にある。
タワーの運営会社「TOKYO 六区 CITY」の株式の70%を握るのは、遊技場運営のマルハンで、
松竹の出資比率は10%しかない。
社長もマルハン副社長の韓俊氏が務めることになっている。
松竹が映画館発祥の地を手放したのは、歌舞伎座建て替えと併設するタワービルにかかった費用が430億円と大きく、
有利子負債が1000億円を超えたことが背景にある。
浅草の建て替えまでは余裕がなかった。
東洋一とうたわれた凌雲閣が85%の寸法で再現されるとはいえ、
台東区の規制緩和を受けるためのものにすぎず、
浅草の再興とはいかないようだ。
実際、韓俊副社長は、「パチンコを楽しみに来る海外の観光客もおり、
今後、さらに海外の人を取り込んでいきたい」と言う。
劇場も、「日本語ができなくても理解できる大衆エンターテインメントの常設の劇場にしたい」(プロデューサーを務めるアミューズの大里洋吉会長)。
遊技場の上の劇場に抵抗がある日本人客は少なくないともいわれる中、
狙いは東京スカイツリーを見に来るアジアからの観光客に絞られているもようだ。
(「週刊ダイヤモンド」編集部 大坪稚子)

週刊ダイヤモンド
http://diamond.jp/articles/-/38572








1930
絵看板職人・津村英雄と幻灯機
大阪の絵看板職人・津村英雄は,絵看板製作が変わっていく転換点に立っていた。
津村の時代,つまり大正後期から昭和初期は絵看板の需要が増えた時代であって,津村たちもそれに対応せざるを得なかった。
そこで新しい工夫が生まれて絵看板も変わっていたのであった。
大正時代半ばに独立した津村は大阪千日前の絵看板などを手がけていた。
看板を制作していた職人たちは文字看板を書く一般のペンキ職人とは異なる絵画の専門家で,「絵師」や「画工」などと呼ばれていた(明治大正大阪市史第3巻,1934年)。
当時大衆娯楽の中では活動写真の勢いが盛んになって,昔昭和初期にサイレントからトーキーへの移行が実現すると,活動写真は娯楽の王座に着いた。
活動写真館が増えて,その外観を飾る絵看板の需要も高まって行ってきた。
津村には弟子が18人もいたが,殺到する注文を捌けないこともしばしばだったようである。
そこで津村に与えられた課題はどのようにして迅速な製作システムを確立して大量生産を可能にするかと言うことであった。
その課題を解決する方法は「幻灯機」を用いた作画方法であった。
幻灯機はスライドのような機能を持った装置で,写真や絵を投影することができる。
津村が用いた幻灯機は前面にレンズがついた小箱で,天板がガラス面になっているものである。映したい写真をガラス面に載せれば中に仕込まれたランプと鏡によって像が屈折して,全面のレンズで拡大されてスクリーンに大きく投影される。
スライドのようにポジフィルムを使う必要はなくて,絵看板制作の場合は映画のスチール写真やポスターをそのまま使えばよい。
これを板に貼られた用紙に投影して,墨や鉛筆で人物の輪郭をとれば下書きは格段に速くなるし,顔が歪んで描かれる事もなくなる。
この幻灯機は津村自身が作り出したのだという。
河野さんもそう語っていたし,弟子筋にあたる三好慶男・宮崎一英も戦後のことであるが,津村が
簡単な箱にレンズを取り付けて原動機を自作している姿を見たと語っている。
津村はレンズにも強いこだわりを持っていて,ツァイス社製のレンズをいくつも持っていたり,東京へレンズの特注を依頼していたらしい。
おそらく戦前も試行錯誤を重ねながら仕事に適した装置を作っていたのだろう。
もちろん当時の装置はボーッとした像しか映すことができずに,目鼻の位置がつけられる程度であったが,それでも白紙に下書きするのに比べると格段の進歩であった。
この相違によって製作のスピードアップを実現したが, 下絵の正確さは同時に巧みな似顔絵を産むことになった。
高野さんによると,戦中から戦後にかけて津村の絵は顔が似ていると評判をとっていたらしい。絵看板の世界では現在に至るまで幻灯機を使った製作法が受け継がれている。
−「看板の世界–都市を彩る広告の歴史」,船越幹央,大功社,

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DiscoverJapan電子版より引用