第12回東京モーターショウ
1965年、東京オリンピックの翌年1965年はオリンピック特需の反動で景気がやや後退。
それまで前年比13%~15%の伸びをみせていたGDPが、前年比11.3%増とややパワーを落としていた日本。
しかし、年末には第二次大戦以後初となる建設国債が発行。
公共工事が増えて、景気は回復、その後1970年までつづく「いざなみ景気」の始まりの年となった。
1964年にはじめて100万台をこえて114万台となった国内の新車販売台数は1965年には114万台に増加。
特に伸び率の増加が著しかったのが乗用車で、
トラックの9.0%増に対して乗用車は24%増と、マイカー時代到来を告げた。
1965年10月末~11月に開かれた第12回東京モーターショウは、
市販車のみならず、トヨタ2000GTをはじめとする参考出品車も数多く登場し華やかさを増した。
入場者数は前回比30万人増(26%増)の146万5800人を動員。
モータリゼーションの高まりを感じさせる熱気に満ち、
その流れは1970年代初頭までつづいてゆく事になった。
- Nostalgic Hero vol.177 あの時代あのクルマ
gfdgfd pc
当時の自動車業界を揺さぶっていたのが自動車の輸入自由化だった。
通産省をはじめとする日本の政府は欧米からつよい揺さぶりをうけ、自動車の輸入自由化をすすめていた。
自動車業界は反対であったが、産業の国際化がすすむなかで、
いつまでも反対しているわけにもいかなくなっていた。
1965年春には政府首脳と自動車メーカー首脳が話し合い、
完成品のみなら自由化はいたしかたないという事になった。
1965年8月には乗用車の完成品のみの自由化が閣議決定。10月から実施された。
また1965年には日産自動車とプリンス自動車が合併が決定、1966年8月に正式合併のはこびとなった。
これは輸入自由化にともなう競争激化に備えた自動車業界の再編であった。
欧州メーカーに負けない技術力でスカイラインをはじめとする優れた乗用車を世に送っていた
プリンス自動車ではあったが、販売力がいまひとつで、業績が伸び悩んでいた。
そこでプリンスの主力銀行であった住友銀行が通産省の意をうけて合併先を探す事になり、
最終的に日産との合併がきまった。
- Nostalgic Hero vol.177 あの時代あのクルマ
gfdgfd pc