[東京新宿] 新宿駅東口


















1969
■新宿の女(昭和44年9月)
澤ノ井は「石坂まさお」として再出発することを心に誓い旅に出た。
さて、自分で作ろうと思ったものの、なかなか思うような詞が作れない。
いわゆる生みの苦しみである。
そんな折り、名古屋で旧友でもある作詞家みずの稔と会う。そこで見せられた一遍の詞が、まさに求めていた言葉だった。
「バカだな バカだな だまされちゃって・・」
みずのにこの詞を使用することを承諾してもらうと、後は一気呵成に出来上った。
「新宿の女」の誕生である。(クレジットの作詞者にみずの稔氏の名前があるのはこういう事情から)
思えば「新宿は俺の故郷ではないか・・」
新宿は人間の吹き溜りのような街。
純子の持つドラマ性を引出すインスピレーションには事欠かない。
まさに原点に返ったところからはっきりと進むべき道が見えてきた。
だが、デビュー曲だけではだめだ。2曲目、3曲目と続かなくては・・、
石坂は新宿の雑踏の中を歩きながら案を練った。そして「女のブルース」「生命ぎりぎり」が出来上った。
あとはレコード会社だ。
実は、石坂まさおは「コロムビアデノン」の話が消えかかった頃に「日本ビクター」の事業部のひとつである「RCA」に挨拶をすませていた。
「RCA」はクラシックや洋楽ポップス中心のレーベルであるが、昭和43年頃からは邦楽にも進出していた。
ここで応対に出たディレクターの榎本襄が、その後の純子のデビューの大きな推進力となっていく。
ついにデビューが決る。
石坂に純子を紹介された榎本もまた「何か」を感じた。
出来上ったばかりの「新宿の女」はまさに純子の生き様そのものが歌になったようなものだ。
端正な顔立ちの17歳の少女はギターを抱え、思いも寄らぬハスキーで凄味のある声で歌った。
「これはスゴイ!」
まさに新宿の街の呻きが迫ってくるような「情念」がある。
それに「美少女の流し」というキャラクターも新鮮だ。
「RCA」からのレコード・デビューが決まった。
となると次は芸名だ。石坂は純子を本格的にプロモートするために
「日本音楽放送(有線)」
などの資金協力を得て自ら「藤プロダクション」を設立した。
(社長は日本音楽放送の工藤宏氏)そこで工藤氏の「藤」と、工藤氏の妹である桂子にちなんで「藤圭子」に決まった。
「これからはテレビを始めとするマスメディア的なイメージ戦略が必要だ。」
石坂と榎本は協議を重ね、藤圭子の端正な顔立ちのわりに、痩せすぎの体型と大人の歌を歌うには色気が足りないことを補う為に、黒のベルベットのパンタロンスーツと対照的なコントラストの真っ白なギターを持たせて売り出すことにした。キャッチ・フレーズは「演歌の星を背負った宿命の少女」。こうして、藤圭子のデビュー曲「新宿の女」の発売日は9月25日に決まった。昭和44年の夏のことである。 だが、「RCA」は新興のレーベル。思うような宣伝予算が確保できない。「それなら自分でやるだけさ」「野良犬には野良犬のやり方がある」。
●新宿の女(昭和44年9月)作詞 みずの稔・石坂まさを 作曲 石坂まさを 
  B面/「生命ぎりぎり」
●女のブルース(昭和45年2月)作詞 石坂まさを 作曲 猪俣公章 
  B面/「あなた任せのブルース」
圭子の夢は夜ひらく(昭和45年4月)作詞 石坂まさを 作曲 曽根幸明 
  B面/「東京流れ者」  
圭子の夢は夜ひらく 
作詞:石坂まさを、作曲:曽根幸明、唄:藤圭子 
    赤く咲くのは けしの花 
    ・・・
   馬鹿にゃ未練は ないけれど 
   忘れられない 奴ばかり 
   夢は夜ひらく 
昭和45年(1970)4月25日にリリース。 10週連続オリコン1位にランクされ、77万枚を売り上げました。 
昭和41年(1966)に園まり、緑川アコなどにより競作された
『夢は夜ひらく』
のカヴァーですが、恋の歌だったこれらのヴァージョンとはまったく違う怨み節系のトーンになっています。 
陶器の日本人形のような整った顔立ちで、アングラっぽいスロー・バラードをかすれ声で歌うというミスマッチな感じが、人びとを惹きつけました。 
藤圭子が
『新宿の女』
でデビューしたのは昭和44年(1969)ですが、その前年あたりから数年間は"学生反乱の時代"と重なります。 
1968年5月には、フランス・ナンテール大学の学生"赤毛のダニー"ことダニエル・コーン=ベンディットらが大学民主化やベトナム反戦を叫び、全国の労働者も巻き込んでゼネスト行い、ド=ゴール大統領の第五共和政を崩壊寸前まで追い詰めました(五月革命)。 
この運動はイタリア、ドイツ、アメリカなど先進各国の大学に飛び火しました。 
わが国では、昭和40年代初め頃から、早稲田、慶応、中央、明治、法政などで学費値上げ反対や大学民主化をテーマとした学園闘争が頻発、それらは昭和43年(1968)の日大全共闘(議長=秋田明大)と東大全共闘(議長=山本義隆)による大学建物のバリケード封鎖と大学当局との大衆団交(大学管理者側にとってはつるし上げ)によって頂点に達しました。 
両方とも翌昭和44年(1969)春には、機動隊によるバリケード封鎖の強行解除によって収束しました。
この年、東大入試が中止されたことは多くの人の記憶に残っていると思います。 
学園紛争以外では、安保条約延長反対をめぐって、昭和43年以降、羽田闘争、新宿騒乱事件、国際反戦デー闘争、佐藤首相訪米阻止闘争など、相次いで紛争が起こりました。 
この「70年安保闘争」は、ベトナム反戦運動や成田空港反対運動、沖縄返還運動と結びつきましたが、佐藤政権による徹底的な取り締まりと学生運動の内部分裂や内ゲバによって、次第に力を失っていきました。 
こうした流れのなかで挫折感や敗北感に襲われた学生たちの胸に沁みたのが、
「赤く咲くのはけしの花/白く咲くのは百合の花/どう咲きゃいいのさ/この私」
と歌う『圭子の夢は夜ひらく』でした。 
第一次安保闘争(60年安保)のとき、同じような状況に追い込まれた学生・青年たちが愛唱した
『アカシアの雨がやむとき』
と同じような役割を果たしたわけです。 
この時期に学生生活ないし青春期を送った人たちには、忘れられない歌の1つでしょう。 
藤圭子は、娘・宇多田ヒカルがまだ子どもの時代に心の病を発症したようで、奇矯な言動がいくつか伝えられています。
平成25年(2013)8月22日、西新宿で自死。62歳。 
多くの人たちの胸に響いた歌をいくつも遺したこと、天才的な歌唱力が娘に受け継がれたことをもって瞑すべし、でしょう。

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