[東京本郷] 喜之床下宿,蓋平館別荘,



1952
啄木遺跡
本郷森川町の三階建ての大きな下宿屋「蓋平館別荘」は今もある。館名は「大栄館」にかわり,下宿ではなく旅館に変わった。
3階3畳半の啄木の部屋は保存されている。しかし残念な事はそれは公共的な保存ではなく,一旅館のなかば名物的な保存である事だ。
「喜之床」の下宿が付近の街とともに弓町2丁目に昔のままある事はきいていたが,この著作を書く事になりあらためてたずねた。
本郷3丁目の電車の十字路から,春日にむかう電車道をすすむと真砂町の停車場がある。
昔の喜之床は真砂町の小学校前から電車通りを横切って弓町を貫通するその道路の,電車道からはいってそのすぐ左側にある。
今は名前も「バーバー・アライ」にかわり,表の装飾もすっかり今風だ。
「喜之床」という古風な呼び方をしても通じそうにない。
その2階が啄木が2年にわたって病体に鞭打って文学生活にいそしんだ記念すべき部屋だと,誰一人知るはずもない。
ただ最近は文学遺跡の問題が表面化してきているので,その理髪店は早晩早く啄木の事を知ったらしい。
というのは,姓もおなじ「新井」だが,当時の人はすでに亡く,現在はその後継者によって商売だけが後継されているだけだからだ。
いわば啄木にも文学にも何のゆかりもない人なのだ。
この喜之床の前の通りは,ほとんど明治以来災害をうけていない。
その町のたたずまいにじっとしていると,古風な一種の落ち着いた明治の匂いがただよってくる。
そして喜之床をふりかえる。やはり啄木が2階から顔を出すのではないかと思われる。
理髪屋の今風の看板は,その明治調に看板をつけただけにすぎないようだ。
理髪店の向かって左に約3尺幅の古風な硝子の開き戸がある。
今でもこの家の唯一の勝手にちがいないが,それは「古風な」というよりも,「ありきたりな」というほうがいい。
そこが2階借りの啄木一家の日常の出入り口であった事は,調べずともすぐにわかる。
「むかし啄木のいた喜之床というのはお宅ですね」
というと,
「はい,そうです」
との答え。
家人は事もなげに,しかし
「そうです」
にはいささか誇りをこめて答えるが,そこからは何もそこからたずね出すわけにもゆかない。
2階は家人の住居だし,勝手口も日常のプライヴェエトな空間だ。
標識ひとつないし,これまた公共の力が加わっているわけでもない。
「幸い」焼け残ったというだけで,いつまた何がおきて地上から姿を消すかもしれない。
日本の文学遺跡はそんなはかないものなのだ。
今(1952年)になって,小石川久堅町の住居跡がようやくはっきりして,誕生日にはそこを遺跡として保存する記念の地鎮祭が行なわれた。
そこはただ赤土だけの空き地だ。
啄木終焉の地だからだが,そういう精神的な行事をするくらいなら,現実に残っているこの喜之床を記念の家として残す事に,もう少し努力したらよかろうと私は思った。
―野田宇太郎著「東京文学散歩」,角川文庫,

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1910
石川啄木
石川啄木が北海道の放浪から最後に上京したのは明治41年の4月ももう終わろうとする28日だった,
「海路を横浜に上陸して,汽車で新橋に行き,そこから車をやとって千駄ヶ谷の与謝野寛の家にまづ旅装を解いた」
とその日の日記にもある。
それから数日の後には本郷菊坂の「赤心館」という下宿に移り,
いよいよ東京を永住の地とする新しい生活がはじまったのだったが,
彼を赤心館に誘ったのが盛岡中学の同窓生で啄木を与謝野の「明星」に紹介した金田一京介であった。
しかし,その日その日の生活に事欠くような状況で,
その頃,啄木が鴎外におくった手紙にあるように,
「長編など書きたいが,それを書いているうちに飢えねばならない」
といった状況であったようだ。
そうした中でやっと書き上げても,その小説は原稿料にならない事が多かった。
そうした逆境への苦悩は,詩人の創作欲を反抗的にそそる場合があるもので,
啄木の仕事に最も脂がのりはじめたのも,この赤心館時代であった。
彼は処女歌集「一握の砂」の後に収めた数々の歌などをふたたびここで書き始めたのである。
その年の9月になると,啄木は下宿の家賃不払いで赤心館を追われ,啄木は金田一とともに,同じ本郷森川町の新坂といわれる急な坂の上にある三階建ての大きな下宿屋「蓋平館別荘」に移った。
啄木の部屋は3階の3畳半という型破りな狭い部屋ではあったが,窓をあけると,眼下に兵器工場をはじめ小石川方面が見渡され,天気のよい日には富士山もみえた。
同時にそこで啄木が書き始めた小説「島影」が友人の栗原古城の世話でどうやら物になることになって,11月1日から東京毎日新聞に連載されるようになったのである。
その「島影」の連載が始まり,ようやく啄木の生活にひとすじの光明が差した頃に,啄木のそれまでの文学をはぐくんでくれた雑誌「明星」が100号で廃刊となり,
過去約8年の幕を閉じた年でもあった。
「明星」にかわる新雑誌「すばる」が同人らによって刊行された。
啄木はその編纂に関わり,下宿屋「蓋平館別荘」はその事実上の編集室であった。
しかし啄木の社会主義的思想への系統,文学に対する考えの違いから「すばる」にかけた文学的理想は破たんをきたす。
文筆活動に不安を感じた啄木は朝日新聞社への就職活動をし,明治42年に抗生部に就職する。
月給は25円であった。
北海道の親が突然上京してきた事もあり,啄木は下宿屋「蓋平館別荘」を出て,本郷弓町2丁目26番地の「新井」という人の営む「喜之床」という理髪店の二階に移り住む。
おりしも明治43年6月の大逆事件で,幸徳秋水一派が無実にも近い罪で大量検挙された。
朝日新聞にいた啄木にはそれがよくわかり,啄木の正義感は燃え上がった。
「すばる」の出資者であり同人であった平出修がこの事件の被告弁護人として立っていた。
啄木は平出を通じて事件をふかく知り,同時に啄木の思想には社会主義の意識が盛りはじめた。
「人民の中へ(ウ・ナロウド)」は彼の文学の合言葉になった。
同年10月には長男真一が誕生。
しかし生まれて27日後に死亡。
わかい父親の啄木の心ははげしい肉親のかなしみに動揺した。
その直後に啄木は自身の身体に異常を感じ,腹膜炎とわかり,ちかくの帝大病院に入院。
さらに妻の節子が胸を病んで発熱。
一家は喜之床の下宿暮らしから,独立した一戸建てを求めて,小石川久堅町74番地の平屋に移住。
しかし新居では,さらに老母が末期の結核で病床の人となり,翌45年3月に没。
啄木は北海道の放浪から帰った老父,胸を病んだ節子,愛娘京子をのこして没した。
享年27歳であった。
啄木の東京での生活はわずかに4年であったが,その4年は常人の40年に匹敵する重要な期間であったろう。
―野田宇太郎著「東京文学散歩」,角川文庫,

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本郷喜之床
4丁目47番地
旧所在地 東京都文京区本郷
建設年代 明治末年(1910)頃
この家は東京本郷弓町2丁目17番地にあった新井家経営の理髪店喜之床で、
二階二間は石川啄木が函館の友宮崎郁雨に預けていた母かつ、妻節子、長女京子を迎えて明治42年6月16日から東京ではじめて家族生活をした新居である。
啄木はそこで文学生活をしながら京橋滝山町の東京朝日新聞社校正部に勤めていた。
明治43年9月にはそこに本籍を移し、10月には長男真一が生まれたが間もなく夭折した。
そして12月に出版したのが啄木の名を不朽にした処女歌集「一握の砂」である。
それはまた明治の暗黒事件として啄木の思想にも影響した大逆事件が起きた年でもある。
その頃から母も妻も啄木も結核性の病気になり、二階の上り下りも苦しくなって明治44年8月7日小石川久堅町の小さな平家建の家に移った。
明治45年3月7日にはそこで母かつが死に、翌4月13日には啄木もまた母の後を追うように27歳の薄倖の生涯を閉じたのである。
この建物は明治末年を遡り得ないと思われる。江戸の伝統を伝える二階建の町家の形式を踏襲してはいるが、散髪屋としてハイカラな店構えに変化してきている。
流行に左右され、清潔であることが売り物となる理髪店の常として、
この店の内部も著しい改造が加えられていた。
建物の柱等に残る痕跡調査を基に、できる限り創建当時の姿に復し、
店内の飾り付けは、新潟にあった同時代の店「入村理髪店」から贈られた鏡や椅子等を置いて整えた。
石川啄木「一握の砂」より

明治村
http://www.meijimura.com/enjoy/sight/building/4-47.html





石川啄木
(我を愛する歌)
東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる
頬につたふ
なみだのごはず
一握の砂を示しし人を忘れず
はたらけど
はたらけど猶わが生活楽にならざり
ぢっと手を見る
(手套を脱ぐ時)
かなしくも
夜明くるまでは残りゐぬ
息きれし児の肌のぬくもり

明治村
http://www.meijimura.com/enjoy/sight/building/4-47.html