[鉄道] 拓殖鉄道/根北線跡

[鉄道] 拓殖鉄道/根北線跡
1990
斜里-下越川間徒歩行
自転車はもう走れない(※)。
※:前日までの走行で車軸を破損していた。後日リムを置換することになった。
とはいえ、このまま帰るのもしゃくな話ではある。
時間の余裕もあることだし、根北線の跡を徒歩で辿ってみることにする。
予想通り、痕跡はほとんどわからない。
廃止された時期が古いだけに、線路跡は畑地等に転用されてしまったのだろう。
斜里駅近くの踏切と橋台にわずかな跡が残されているのみである。
斜里駅から見ると、根北線の線路跡がまっすぐ進み、釧網本線の線路が南へと分岐しているかたちになっている。
根北線の方が格上な路線だったとは思えないにせよ、標茶駅とも共通する現象で、おもしろい。
強い陽射しの許、国道に沿って歩く。
以久科駅の駅舎らしい建物が見えてくるが、周囲は一面の畑地であり、近寄る術がない。
半ば朽ちたるこの建物、ひさしの伸び具合いからしてまず駅舎であろう。
畑の中に浮かぶ過去の遺物といった趣だ。簡素にして粗末。
根北線の置かれた状況が、そこはかとなく知れる。
駅舎の傍らにも廃屋が二軒ほどある。
いったいなんの建物であったのか、以久科駅舎とともに畑の中にたたずんでいる。
格子のような農道をアミダくじ式に進む。
いやになるほど静かだ。ただ、セミの声だけがやけにうるさい。
線路の跡は防雪林の切れ目などでかろうじてわかるのみである。
下越川駅跡も近寄る術がわからない。わかったとしても、跡が残っているかどうかは疑問だが。
国道に戻り、わたしが越川まで完歩出来ないことを知る。
バス路線は下越川付近が終点なのである。しかも、最終バスは15時15分発で、これを逃せば歩いて帰らざるをえない。
そして、越川駅までは4kmほどの道のりである。
往復するだけで2時間以上かかることは必至で、とても最終バスに間に合う筈がない。
バスは1時間もせずにやってくるのである。
越川まで行き、さらに斜里駅まで歩き通すという手もないではない。
だが、そうすると斜里駅に着く前に陽が沈むことは間違いなく、今晩の宿を網走に予約している以上、都合が悪い。
今回のツーリングは、とことんついていないようである。
前進を諦め、バス停付近の商店の女将の話を訊く。
「わたしはこっちに来て間がないけど、線路の跡は全然わからないみたいよ。
越川の駅は民家になったそうだし。
ただ、人柱が埋まってるっていう橋の土台は残っているみたい。
町の人が年に一回供養している。
随分とテレビにも取り上げられたしね。
ここらはなにもないところだけど、それでも線路はどこですかって訊きにくる人はしばしばいるよ」
う~ん、ここにもまた「そういうの」(※)が多いようである。
もしかすると、地の果てまで行ったとしても、そこに鉄道がある限り、「そういうの」の影からは逃れられないのかもしれない。
※:6日前の歯舞の薬屋のおばさんとの会話。
「ところで、なんで拓殖鉄道のことなんか訊くの?」
「興味があるもので」
「たまに来るのよね。そういうのが」
おばさんに「そういうの」と呼ばれ、わたしはおおいに落ちこんでいた。
バスがやってくる。
2人が降りて折返し。乗客はわたしだけで、斜里駅に着くまで車内には運転士とわたしだけのさびしい道中になった。
このバス路線、旧越川駅の手前4kmほどのところまでしか行かず、しかも1日2往復の運行しかなく、その2往復でさえ日曜祝日には運休してしまう。この実態こそが旧根北線沿線の全てを物語っているのではあるまいか。
途中の乗り降りもなく、バスは快速を誇る。
2時間かけて歩いてきた道を15分で簡単に走破してしまう。
こうしてみると、やはり自転車は便利だ。
15分とまではいかないにしても、30~40分で行けた道筋ではないか。
黄昏かけてきた地を走り抜け、バスは斜里駅に到着する。

以久科鉄道志学館
http://www.geocities.jp/rail_of_shinsyu/ezo/ixyna/90.html
http://www.geocities.jp/rail_of_shinsyu/ezo/you/you.html
http://www.geocities.jp/history_of_rail/781/781.html
http://www.geocities.jp/rail_of_shinsyu/ezo/index.html
http://www.geocities.jp/history_of_rail/




旧国鉄根北線が存在した区間は
斜里-越川間
である。
営業成績が芳しくなく、同区間は廃止されてしまったが、根北線本来の建設予定区間は
根室標津-斜里間
であった。根北線とは「根室と北見を結ぶ」鉄道なのである。
従って、今日これから走る区間は、厳密な意味での根北線全線に相当する。
一度も列車が通わなかった区間を自転車で代行する訳だ。
見果てぬ夢に終わった根北線の車窓風景を、よく見ておこうと思う。
標津付近
撤去された標津川の鉄橋跡を横目で見つつ、標津の街を出る。
いつの間にか、雲が多くなっている。
太陽が雲に隠れたせいだろう、海の色が悪い。
風は横から、あまりうれしくはない。
標津線転換バス2台と会う。
1台には5人ほどが乗り、もう1台は空っぽという有様だ。
標津線が置かれた状況は今でも厳しいといわざるをえない。
マイナーな道筋である。ライダーは数少なく、サイクリストは全く見かけない。
人家はぽつぽつと点在しているが、集落を構成してはいない。
中標津への分岐には老婆の一人暮しとおぼしき一軒家がある。
いったいどのようにして生活しているのか、不思議なほどである。
なにもない、なにもない、まっすぐなただまっすぐな道をゆっくりと走る。
ほんとうになにもない道である。
かつてはこの区間にもバス路線があったはずである。
事実、道路幅が広がっている箇所がところどころにある。
これはどう見てもバス停があったとしか思えないつくりである。
しかし、現在の時刻表には根北峠越えのバス路線は掲載されていない。
つまり、バス路線さえ廃止されるほどのさびしい道筋なのだ。
国道だけにそれなりに交通量はあるが、ただそれだけのことである。
風景として目立つのは古多糠分岐の電波発受信塔くらいなものである。
徹頭徹尾人気が乏しい景色が続くが、それでも根北線建設の準備はある程度行なわれたと聞く。
聞いた話によると、根室標津側においても用地の取得は進んでいたらしい。
ただ、どういう基準で取得したものか、用地は鉄道としての線形をなしていなかったともいう。
用地の取得時期は相当昔に溯るため、詳細はよくわからないが。
山地が次第に近づいてくる。
道端にモグラが数匹死んでいる。禽が飛んでいる。
間近に見れば、威風堂々としてたくましい。
糸櫛別には駅逓所跡の看板がある。今となっては人家が一軒あるだけの、僻地である。
人の気配がしないというのは北海道ではありふれたことである。
しかし、この道筋にはそれだけで片づけられないさびしさがある。
地形が平坦なのである。
そして、水が全く得られないとか気候が極端に冷涼だとかの、人間が住むに適さない条件下にあるとも思えない。
現に家があり、牧草地が広がっている以上、人間の営みは行えるのである。
にもかかわらず、人間の存在が極めて希薄なのだから尋常ではない。
だが、その理由ははっきりしている。
この地では収支を均衡させるのに多大な困難が伴うのである。
何十年も前には、もっと多くの人がこの地に住んでいたに違いない。
時を経て、次第に生計が成り立たなくなり、一人また一人と別の地に移っていったのだろう。
近代的な酪農にはそれなりの初期投資が要る。
産と夢を破り、心ならずこの地を去った人も少なくないのではないか。
だからこそ、わたしは思う。
この根北峠に向かう道は、最も北海道らしい道であると。
大地の営みの前に、人間は小さな存在にすぎないのだと。

以久科鉄道志学館
http://www.geocities.jp/rail_of_shinsyu/ezo/ixyna/91_1.html
http://www.geocities.jp/rail_of_shinsyu/ezo/ixyna/90.html
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http://www.geocities.jp/history_of_rail/781/781.html
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根室拓殖鉄道弁慶号と運転手
手宮で留置中のキハ03 1(レールバス)
1980