[群馬高崎] 居酒屋,三月兎

[群馬高崎] 居酒屋,三月兎
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2006/6/2(金)午後7:25
昭和“音の風景”
三月兎
「三月兎」は、昭和三〇年の半ば頃から「風雷」と云う屋号で商ってた。
其処のママさんは昔、教員だったとかでその筋の客が多かったようだ。小柄だったがなかなかの雰囲気の在った「女将」さんだった。
「風雷」は、なんでも、「ゲテモノ」を食わせると云う「評判」の店だったようだ。
どうした風の吹き回しか、とても「水商売」とは不向きのように見える「松岡氏」が、諸般の事情の末のその店を引き継いで、やると云うのだ。
もっとも、既にその頃その店は「風雷」と云う先代のママさんの屋号から、娘さんの代に移ってその名も「三月兎」と店名を改めていた。
「三月兎」と云えば、不思議の国のアリスの「兎」。
何度かその先代の時も、「三月兎」になってからも寄らせてもらった事があった。
僕が二〇代の頃だったのでなんとなくタイムスリップしたような趣のあった店だった。
取り立てての格式という訳ではないが、一見に、「フラッ」と、寄せてもらうにはそれなりの覚悟を感じさせた。いったん中に入ってしまうと何でもないのだが―――――
早い話が、飲兵衛の寄合所。
「松岡氏」が亭主となる頃にはその色合いはいっそうに濃くなっていた。
「なべさん、今度『三月兎』やろうかと思ってるんだけど」
「松岡氏、大丈夫かよ・・・・・」
実は松岡氏、とても水商売というタイプではないような趣の当時だったからだ。
「俺、料理も作れねえし、なべさん、悪いけど、マーちゃん手伝いに貸してくれない?」
と、哀願する。
「マーちゃん」とは僕の連れ合いのことである。丁度、その「松岡氏」店を開けようと云う昭和五六年の春に僕と「マーちゃん」とで場末でやっていた「スナック」を閉めたところだったからだ。
「マーちゃん」の方は料理は手慣れたもんで、暫くは手伝うことにした。
「三月兎」は天井には剥き出しの碍子線が這い、薄明かりの裸電球が、ある種売りだった。建付けのあまり良くない引き戸を開けて中に入る。
「高崎デザイナー倶楽部」と「群馬デザイナー倶楽部」の重鎮の交わす杯に暇が無い。
「なべっ、てめえなっ、生意気言ってるんじゃあねえよ」
と、重鎮中の重鎮・・・「石井さん」である。
役者にしてもいいような、加藤剛と竹脇無我を足して二で割ったような、しかも身長は六尺は優に超えそうな「スラーッ」っとした、今風に云えば、そう、「イケ面」。
「石井さん」甘いマスクにがっしりとした体躯、さらに「酒」が滅法強い。中之条の出身だというが、中之条、高崎どころか、群馬に置いとくには勿体無い程の「デザイナー」であったような。
「なべっ、てめえ何とか言えっ、何眠っちゃがるんだ・・・つまんねえ野郎だな」
と、その重鎮怒りが収まらない。
実は、僕は一定量の酒が入ると眠ってしまう方なので「眠れぬ三月兎の美青年」にとってはさぞかしつまらん存在だったのだろう。
と、云うのもそこそこの酒量の時は僕も石井さんとそれなりに言葉の戦いをしていたから余計なのだろう。
「三月兎」はどちらかと云うと「日本酒」が売りである。然し肴と云っても取り立てて何か特別な「美味、珍味」を食わせるわけではないので、実のところ、何が良くて常連、足繁く通うのかは分からない。
時には高経(高崎経済大学)かなんかの女子大生をバイトに使ったりしているようだが、カラオケがあるわけではなし、その線の「色気」が或る訳ではなし・・・
まあ、それが、「三月兎」の「三月兎」たる所以か。
「風雷」の頃は、蛙を食わせたり、雀を食わせたりと、その筋で評判だったようだった。
松岡氏の「三月兎」になってからは、
「マスター、美味いモロキューくれ」とか、
「最高の梅干ねえの」と。
マスター、松岡氏も負けてはいない。
「炒り立ての銀杏があるよ」
高崎の文化人が屯すると仄聞する・・・
暫く行ってないな。
創めたのが昭和六〇年頃だから、もう彼此二〇年になるのかもしれない。結局は鰥夫を通すのか、ここまで来れば、色恋もなかなか至難の業に違いない。情感たっぷりに歌う「フランク永井」も女性を射止めるところまでは行かなかったのか。
実は秘めたる淡き「純愛」が、その松岡氏にあったことを僕は知っている――――――
詳細は後段に譲るとしよう。
〈惜しいことをした、なかなかの人物だったのに〉
いやいや、まだまだ元気なはずだ・・・元気なはずだ。

KINEZUKA倶楽部
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