[東京大手町] 東京駅


 




































1913







明治41年(1908年)
首都の中央に一大停車場を作ろうという機運がおきた明治中期。
当時の鉄道は、
新橋を起点とした東海道、
上野からの東北道、
飯田町からの中央線、
山手線、
青梅線、
総武線
などが、まだ一部は私鉄ながらも走り出し、
これを国が買い上げ始めた時期をむかえていた。
だが、なぜか新橋―上野間だけは、馬車鉄道につづく市電が細々と結ぶだけで、鉄道網は欠落していた。
この欠落部分に巨大で豪華絢爛なステーションを設け煉瓦と石積みの高架線で結ぶのは、当時の国家的威信を内外に誇ろうという明治政府の、
ビッグ・セールスポイントとでもいうものであったようだ。
日清・日露戦争に勝ち、日本人は黒船ショック以来の長い外国コンプレックスを振り払っていた。
異様なまでの国威発揚の意識にニッポン人があげて酔いしれた時代背景があった。
明治41年3月25日、中央停車場の基礎工事着工後、鉄道院総裁の後藤新平は
「大国ロシアを負かした日本にふさわしい、世界があっと驚くような駅をつくれ。
米国で見た摩天楼を地震国日本に作れないならば、せめて横の長さで国の大きさを誇れ」。
-岸本孝「東京駅物語」1980年初版刊,

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明治43年(1910年)
三菱ヶ原は一面の草原だった。
馬場先門の前、赤煉瓦の洋館を右に、デコボコの近道に車をひきいれた。
大どんは
「この辺でお艶殺しがあったんだよ」
と、草の茂みのほうを指差した。
東京駅があたらしくできるという鉄骨工事も進行し、
ここから見ると、鉄の骨組みが城郭のとうに黒々と高くそびえている。
京橋寄り1/3ほどは煉瓦が積み上げられ、
六角の大きな屋根も形を整えつつある。
夕日をうけたこの巨体がなんとなく薄気味わるい。
東京駅と続いて工事中の高架下をくぐると、東京市役所分室。隣が鉄道院。
-櫛原周一郎「ある生涯」

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明治44年(1911年)
帝国劇場は専属俳優として、座頭・尾上梅幸、松本幸四郎、沢村宗十郎らの歌舞伎役者を揃え、
かねて養成中だった女優学校の第一期生11名もフットライトを浴びる事になった。
第一回公演、いわゆるコケラ落しには、大阪の人気俳優・中村雁治郎が一枚加わった。
大阪役者の東京出演は珍しがられたもので、初興行の売り物になった。
その中村雁治郎の東京乗り込みの話がある。
東京駅は建築最中だったので、成駒屋一行は新橋駅に夜9時についた。
役者の乗り込みには座主その他大勢が出迎えるのが慣例だが、
その夜はことに賑わしく、提灯を手に手に駅頭に集まり、
成駒屋を中心にそこで勢ぞろいの後、数十台の車を連ね銀座から京橋、日本橋と、
繁華な町々を練って帝劇に乗り込んだ。
-永井龍男「石版東京図会」

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1912
官鉄値上げ
官線鉄道は来たる15日より全線に於いて,旅客の賃金を引き上げ実行することに決定したり。
新橋停車場より京浜間及び主なる駅の改正三等賃金,以下の如し。
新橋より
品川60銭
大森10銭
川崎17銭
鶴見21銭
神奈川27銭
横浜30銭
鎌倉51銭
横須賀60銭
沼津1円31銭
静岡1円73銭
豊橋2円50銭
名古屋2円93銭
岐阜3円10銭
大垣3円18銭
米原3円38銭
草津3円62銭
京都7円75銭
大阪3円97銭
神戸4円13銭
ー朝日新聞

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築地明石町,1912,



1913
東京電車鉄道会社の上野〜新橋間の電車は,いよいよ今25日より開通することに決定したるが,その営業時間は毎日午前5時半〜翌日6日午前1時半まで。
その賃率においては,重役等一等は従来のままに据え置かんとしたれども,後世論に省みるところがあり,断然「据え置き説」を翻して「3銭均一制」を取ることに決定し,昨日にわかに3銭均一賃率を持ってせんことを出願せし処,即日許可あり,依ってさしずめ上野〜品川間の電車開通区間において本日よりこれを実行し,上野〜雷門間及び,日本橋区域本銀町角〜浅草橋雷門等に至る間の如き旧馬車通区間は旧賃金を持ってする筈なり。
ー朝日新聞

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[鉄道] [東京大手町] 東京駅~戦後復興期の東京駅
復元まぢかの東京駅~復元の理由
2012/7/21(土) 午後 4:11 
駅舎建築を見る 建築デザイン
■創建当時の姿への復元工事中も終盤
大阪駅から、一転して今度は東京駅に。
で、東京駅といえば、やはり赤レンガで知られた丸の内駅舎。
一世紀の時を経てさまざまな変遷を遂げて来ているが、創建当時の姿への復元工事中も終盤に差し掛かり、この秋には完成の予定。既に全体像が現れてきている。
復元は、体裁と郷愁による意図だけでなく、駅舎自体が既に重要文化財に指定されているので、
文化財としての保存修復の一面をも持つ。
そもそも東京駅は、東海道線の起点である新橋駅と、北のターミナルの上野駅とを結び、国家的鉄道の起点
とする“中央停車場”として構想された。
明治29年(1896)の帝国議会で、中央停車場の建設が決定され、明治41年(1908)より工事が開始。
大正3年(1914)に開業した。
しかし、丸の内から八重洲のあたりは、もともと野っ原で、なんにも無いところであった。住民も
居ない状態だったが、その後、三菱財閥を中心として、一躍ビジネス街に発展していく。
そして、なんといっても目を惹いたのは、この赤レンガ駅舎。
言わずと知れた辰野金吾による設計である。葛西萬司らも設計に携わっているが、建築意匠としては、
辰野式が遺憾なく発揮された作品である。日本銀行本館とともに辰野金吾の代表的作品であり、
なおかつ日本近代建築の代表でもある。
辰野式の大きな特徴のひとつである赤煉瓦に白い石でラインを巻くスタイルがここでも用いられている。
ヴィクトリアンゴシックを範としたものである。
さて、辰野が参考にした駅としてアムステルダムの中央駅がよく言われている。
なるほど、確かに似ている部分もある。中央のマンサードの雰囲気など特に。
ただ、アムステルダムの方は建築様式がネオゴシックであり、東京駅とは大きく異なっている。
そのまま範としたものとは一概に言えないようだ。
まあ、どちらもさすがお国を代表する駅舎で実に壮観である。
■復元まぢかの東京駅~復元の理由
そもそもなんで復元なのか?
実は、丸の内駅舎は残念ながら、昭和20年5月25日の空襲で被害を受け、壁面を残し、屋根と内部を完全に焼失してしまった。(開業から31年目のこと)
終戦を経て、昭和20年の末より応急的復旧工事が進められ、昭和22年に規模を縮小した形で体裁を取り戻した。応急処置とは言うものの、結局、近年まで60年以上もその姿を留めた。
で、この戦後での主な変更点は…
3階建てであった駅舎を、中央の本屋を除い2階建てに低減。南北の大型ドームも4階建てから3階建てとなり、その屋根もバロック屋根から単純な八角形の直線屋根に変更された。これらは煉瓦壁が火災により耐久性が落ち、特に3階部分の被害が大きかったことによる。
中央屋の大屋根もなんと木造であったとのことで驚きだ。
つまり、今回の保存復元では、この逆のことを行っている訳だ。
だが考えてみると、赤レンガ駅舎の100年弱の内、2/3の期間は、この応急処置の姿だったので、こちらの方のイメージが強く焼きついている人が多いことだろう。
東京オリンピックの頃の東京駅
お気づきの人も多いことだろうが、赤煉瓦を間近で見ると、今なお満身創痍である。
空襲による焼け爛れた部分や、長年の間の欠損、亀裂が多く、補修部分で色が様々に異なっているところも多い。
復元完成秒読みの赤レンガ駅舎
ちなみに、ブラタモでも紹介されていたが、煉瓦と煉瓦の間をつなぐ漆喰が覆輪目地(ふくりんめじ)で
仕上げられている。手間のかかる作業がなされているが、これほど大振りな建築では、通常の目地では、
間延びしてしまうのも事実だと思う。

若葉マークの都市建築研究所
http://blogs.yahoo.co.jp/momonakai/

街角情報
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