野坂昭如『1945年,神戸』~終戦まぎわの神戸





野坂昭如『1945年,神戸』~終戦まぎわの神戸
1945
六甲道駅を降りると常夫は昔が懐かしくなったか永手町の方へ向かう。常夫がかつて住んでいた辺りを歩いて,「みんなでよく一本松へ遊びに行ったな。良夫さんなんかと」とつぶやく。良夫というのは湊川神社の傍で洋服屋を営む,征夫たちの従兄だが,中国に転戦中に焼夷弾の爆発によって片足を失って現在陸軍病院に入院していた。「一本松は高射砲陣地になっている。軍用犬が見張りしていて,知らんと近づいた子供が噛み殺されてん。でも神戸は帯のように細長い町やから高射砲を並べておけばよく当たるだろうな」常夫と同じような事を征夫も考えたことがある。
去年までは大晦日近くになると紙に描いた門松を 門に貼って年賀状も書いたのだが,いかに哲子の気働きが良くてもハガキの買占めまでに至らず,その代わりに正月を迎えるにふさわしい食べ物の数はこの何年来かで最も豪勢に整えられていた。
厳しい統制の網が緩みはじめ,闇が半ば大ぴらになって金さえ出せば何でも手に入った。
米一升18円
牛肉一貫80円
砂糖一貫100円
玉子10個8円
メリケン粉1 kg 12円
天ぷら油1合11円
さつまいも一貫45円
塩鮭一尾60円
配給ルートからの横流しで,ほぼ公式に売買されているに等しい。
「ないないって言ってるけど,結構日本も大したものじゃない」あまりあっさり入手できるので,哲子などは張り合い抜けの状態で,しかしこれは出征軍人の留守家族や大黒柱を徴用に取られた商人の家が,物よりも金が欲しさに公定価格で買った食料をすぐ数倍の値段で配給所に売ったためであった。
食べ物はいくらか楽になったが衣料切符は全く有名無実の存在で,闇値はうなぎのぼり,防空頭巾は着物を解いて作って,帯芯で鞄を作るくらいは教えられずとも知恵を働かせたが,もともとが下着で破れやすいその継ぎ切れに皆困っていた。
上に着るのは男の9割までが国民服。女のすべてはもんぺで,なんとか形はついていても,その下は惨めなもので,しかもこの冬は30年ぶりとも50年ぶりともいわれる寒さであった。古い下着を潰して継ぎに当てて,その継ぎの糸はまた浴衣を解いて回収する始末である。白い布地に黒や赤の糸が 縦横に走り,破れやすい靴下などもまるでサーカスのピエロの衣装のように色とりどりの有様であった。これはもっともこれはゲートルで隠れたからいいようなものであるが。
1945年12月30日元旦になって,元旦に大規模な空襲が行われるかもしれないというデマが飛び,「アメ公は戦争いうても日曜日には休む。そやからそんな正月早々にやらんやろ」「いやいやアメリカの正月はクリスマスやんか。正月関係ないで。それよりも仕事始めのつもりで来るのちゃうか」誰かが言うとその方が真実らしく聞こえて,もういつ空襲されても不思議はなかった。
阪神地方こそ未だ単機による高度からの偵察に止まっていたが,東京名古屋では被害が相次いで鬼火のごとく連なり降ってくるという焼夷弾についても,体験談が密かに伝わっていた。それはまず親爆弾とでもいう筒が投下されて,地上300mの上空で割れると,中から20~30本の焼夷弾が現れて,その一本の大きさは直径3cm長さ20cm ほど。上部にリボンがついていて,割れると同時にこれに火がつく。「なんや綺麗なものらしいですわ。ふわふわと落ちて来るらしいで」爆弾の壮絶なイメージからは程遠いだけに却って不気味であった。~
中国の要衝を爆撃する荒鷲の雄姿はニュース映画でよく見たが,あの爆弾は全て橋や駅に向かって正確に落ちていったはずだ。省電(国鉄)の六甲道駅,阪神の石屋川駅,阪急の御影駅とどこからもほとんど変わりのない距離にあるN町,およびその周辺の街並みを駅から眺めて,連造がこの一面に火が降り注ぐとはどうも考えにくい。めぼしい建物は公会堂と国民学校ぐらいのものだった。「町のこんなところに爆弾落としたって無駄なだけじゃないかね」という言葉につい賛成したくなる気持ちが強いのである。
しかし東京の浅草,蔵前,柳橋,本庄東,両国,日本橋,浜町など何の変哲もない下町が被災していた。
「下町には町工場が多いから,あるいは狙ったのかもしれないけれど,わざわざ 2100kmもの海を越えて町工場を狙うのもおかしいやろ。 アメリカはもう日本を占領した後のことを考えている。日本の優秀な工場施設をそのまま本国に持ち帰りたいために,飛行機工場は避けて住宅地を目標にされる。町工場なんか来なくてももう原料がないんだから,それよりも住むところを焼き払ったほうがよほど効果的ってわけだよな」
したり顔に言うに磨いてそうきてもその説ももっともらしく思えるのであった。
ー野坂昭如,「1945年,神戸」,中公文庫,

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