[東京浅草] 玉ノ井私娼街







 

[東京浅草] 玉ノ井私娼街
色街玉ノ井
■ある娼婦
....次の人生は浅草12階近く。街の人の話を総合すると,彼女が玉ノ井に来たのは大正12年のころ。
ーあのとき,浅草12階の私娼街が震災にあったのを契機に玉の井に来たんでさァ。
浅草でだいぶ金を稼いできたらしく,ここに来ると女を置いて商売を始めてねえ。しっかりもので商売上手。一時は店を数軒も持つまでになった。戦前ですがね。総檜の家を建てましたヨ。王ノ井じゃ檜御殿って呼んでました。戦争が始まっても紅灯は消えず。客の姿が見られなくなったのは空襲が激しくなってからと,終戦直後だけである。
戦後。玉ノ井の所業の形態は変わった。銘酒屋と呼ばれた私娼街から,型式もなにもない売春街へ。この時代も,婆さんはたくましくしたたかに生きた。金を貯めては家を求め土地を買う。ある時期の資産は億をこえたでしょう。私の古老のうわさ話。
震災から35年。脂粉,矯声の絶えることのなかった玉ノ井も,灯の消える日が来た。昭和33年4月の売春防止法の施行である。お婆さんもこれを機に商売を変えた。アパート業に。銘酒屋の経営者となり,アパート経営者となったりお婆さんには何かしら,華やかさが残った。小金に目をつけてあれこれいい寄る者が多かったからである。子供のないお婆さんは,知人の出入りは好んだ。かわりに見ず知らずの人は警戒した。お金を返さない人があったからだ。
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■玉ノ井私娼街
玉ノ井に私娼街ができたのは大正12年以降である。関東大震災で浅草透12階下の玉ノ井が越してきた。こんなものがあっちゃまずい,とお上の命令だったそうです,と街の古老。私娼のいる家を銘酒屋といった。かつては1階で酒を売っていたからである。銘酒屋は昭和にはいってますますにぎわいを見せる。当時の文人墨客はこの玉ノ井がよほど気に入っていたらしい。
「思いがけないころから徳田秋声先生があらわれるかと思うと,高村光太郎氏が一軒一軒,たんねんに
女いのいる窓を覗きながら歩いている。そういう光景はいたるところでぶつかった。私が玉ノ井でよく会ったのは武田麟太郎である」
と尼崎士郎は『わが青春の町』で記している。永井荷風の『墨東綺譚』,高見順『いやな感じ』,舟橋聖一『風流抄』。その文人たちの目に映った玉ノ井はどうだったか。尾崎士郎は『わが青春の町』で
「ほそい路地が縦横につらなり,さゆに曲がり,ひとたび此処に足を踏み入れたが最後,どの道がどこに繋がり,いったいどこへ出られるのか目標もつかなければ判断も出来なくなる」
と建て込んだ街並みを述べ,
「特の低い軒には必ず小さい窓がならんでいて,女たちが思い思いの声を張りあげて客をよんでいる」
と書いている。
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文人墨客が,女のいる小窓をざっとながめ歩いたころ,玉ノ井にはざっと500軒の銘酒屋が軒を並べ,私娼は1000人を超えていた。土曜日ともなると東武伊勢崎線の客はほとんどが「玉ノ井駅」で降りてしまう。それから先の電車はがらがらになる。駅から紅灯の街までの路地には肩をぶつけ合うように歩く男たちの列が続いた。その数は最盛期には1日に1万人にものぼった。当時浅草に住んでいた山崎墨田区長の談。
「浅草からくり込むんですが,当時,切符を買うのに,玉ノ井っていうのはだれもいません。みんな一つ先の鐘ヶ淵駅ってんです。料金が同じせいもあるん
でしょうが,やはりうしろめたかったんですかね」
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ー下町,朝日新聞社編, 朝日文庫,   

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