[東京本郷] 喫茶ペリカン〜東京文学散歩

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[東京本郷] 喫茶ペリカン〜東京文学散歩
本郷菊坂のへんから駒込あたりまでは関東大震災と戦災という二度の大災害をまぬがれた土地なの
で,ところどころの横丁や路地奥にはまだ明治時代そのままの民家がのこっている。ことに菊坂辺は佃島とともに東京名所化しているから,私などが喋々するまでおあるまい。田宮虎彦の『菊坂』には昭和戦前のそのあたりがかなり精細に書きこまれていて,その後表通りにはさすがに改装をほどこされたのが多くなってしまっているが,一葉のかよった伊勢屋質店など忘昔日の姿をとどめているとだけ言っておく。
菊坂をのぼりきって本郷通りへ出る右角はいま一階にパチンコ店のある文京センターというビルになっているが,明治39年版の地図ではそこが本郷勧業場となっている。それが映画館になり寄席になったのち,燕楽軒というレストランになったのは大正の中ごろからだった様子で,宇野千代には一時この店で働いていた期間がある。千代は『私の文学的回想記』のなかに書いている。
「ひょっとしたら私は,文学少女と言ふものであったかと思ひます。22くらひの齢でした。本郷三丁目の角にあつた燕楽軒と言ふレストランの給仕になつたことがあります。(略)そんなレストランなぞで働くことは,その頃では人に自慢の出来ることではない,と思はれてゐたのですが,いまでも私の心の中に,やはり自慢には出来なかったなと言ふ思いがあります。しかしここでちょっと言ひ訳をしておきたいのは,のちに女給などと言はれた種類の職業とはいくらか違った形の仕事であつたらしく,給仕は客の求めに応じて料理,酒などを運ぶだけでそのほかの応待は禁じられてゐましたので,生来愛想のない私でも勤めることが出来たのです」
また昭和3年4月13日には,おなじその店で新興芸術派俱楽部の発会式がおこなわれている。そのほか本郷通りでは階下が煙草や食料品の店で二階が喫茶室になっていた青木堂や,朱門前と正門前の中間あたりにあったフランス料理の鉢の木などが高名であったが,昭和初年代の東大生にとって忘れがたいのは落第横丁の喫茶店ペリカンであろう。
また昭和10年前後の私の記憶にきざみつけられているのは,本郷三丁目をすこし越えた左側にあったブルーバードという暗い感じの店で,当時の喫茶ガールはいずれる少女じみていたのにかかわらず,ブルーバードの女店員には不思議にデカダンスな雰囲気があってよかった。
戦災を受けなかったために都内では最も変化のすくない街であった本郷通りも,最近では急速には
連に変化しつつある。戦後になって衰微した街の一つといってまちがいあるまい。
ー野口冨士男,私のなかの東京,

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