[東京浅草] 玉ノ井慕情〜東京文学散歩

FB_IMG_1624361815207.jpg

 



[東京浅草] 玉ノ井慕情〜東京文学散歩
#花街風俗
大正12年に書かれた宇野浩二の『子を貸し屋』は,友人の遺児を育てている浅草の団子屋の主人が銘酒屋の酌婦の一人にその子供を貸してやるとつぎつぎと借り手があらわれて困惑する話だが,酌婦にしてみれば路上での客引きを禁じられていたために子連れの素人女と見せかけ警察の目をかすめたかったわけで,彼女らの逸脱ぶりには取締り上目に余るものがあったらしい。
ー二階下の白ッ首とよばれた酌婦で,十二階は瓢箪池のほとりにあった。玉の井と亀戸の私娼街は,その酌婦たちが関東大震災で焼け出されたのを機会に浅草を追い払われたために,分散して新しく形成された街である。
玉の井の名を一躍高からしめたのが『墨東綺譚』であることは言うまでもなく,繰り返していえばそれは日華戦争が勃発した昭和12年のことだが,すでに昭和6年2月中央公論社から版された下村千秋の『天国の記録』にもこの街は取り上げられている。それ以前の文学作品を私は知らないが,案内書の類にはさらに早く出ているものがある。昭和4年6月に誠文堂が出版した松川二郎著『全国花街めぐり』と,同年12月中央公論社から出版された『新版大東京案内』と今和次郎,吉田謙吉の共編で上梓された『考現学採集』の三冊である。まず『全国花街めぐり』から抜き書きしてみる。
「今や吉原と並んで東京名物のひとつに算へられつある此の事実を,奈何ともする能はず。玉ノ井は私娼窟の代名詞とまでなってゐる。大正8年欧州戦争の好景気に乗じてここに花街経営目論まれ,向島から移転してくる気早な芸妓屋などもあつたが,三業地は不許可となつた為,一転して私娼街と化し,浅草六区を駆逐された女がこくと亀戸に集まって,忽ち代表的私娼街をかたちづくるに至つたるので,同じく闇に咲く花ながらも,普通の銘酒屋とは違って一廓の中に公然と営業をして居る全くの別世界である。家数にして460軒,女の数にして650人。ついでに『新版大東京案内』もみておくと,亀戸と玉の井の《双方を合せ、娼家の数は約900軒で,私娼の数は2000人に達して一軒の家にざつと2人平均》であり《これ等の私娼窟へ集る浮れ男の数は一日約15000人》《しかし実際に彼女〔等]の笑ひを買ふ男は右15000人のうち6000ぐらひ》だとのことで,それが昭和4年現在の状況だから,私などが行
くようになった昭和11 〜12年,特に『墨東綺譚』の発表以後はもっと盛況をきわめていたに相違ない。《広くて九尺,多くは六尺幅の道,甚だしいのはやつと人が歩ける三四尺幅の道》に幅候していた人間の数は大変なもので,そんな隘路の両側にぎっしり娼家が建ちならんでいたのだから,まさに魔窟そのものであった。私一個の体験にかぎっていえば,自分はいまそういう場所へ来ているのだという現状認識によっていっそう昂奮した。そしてそこの路地は狭溢であっただけに,いっそう吉原や新宿や洲崎というような公娼街にはないあやしさが立ちこめていた。。
吉原の時代おくれな感じが玉の井を繁昌させた原因だと私は言ったが,両者の最も顕著な相違は「のぞき」または「目ばかり窓」とよばれた小窓の存否にかかっていた。他の作品とは違って『墨東奇譚』のばあいは文庫本でも木村荘八の挿絵が入っているものが過半を占めているので,あまり詳しい説明を必要としないが,玉の井の娼婦は極度にせまい道に面した板壁の一部をくりぬいてある小窓のなかから顔のほんの一部だけをのぞかせながら,店
の前を通って行く客に呼びかける。その窓がいかに小さかったか「目ばかり窓」という呼称からの想像できろだろう。前にちょっと触れておいたが昭和6年12月に建設社から今和次郎と吉田謙吉の編著で『考現学採集』という書物が出版されていて,その窓のスケッチが合計82種掲載されているが形状はいかに多種多様でも目的は一つである。
「ちょいと、ちょいと」
女の顔だけが見える小窓から通りすがりの男たちに呼びかける。
「ちょいと,兄さん」
「ちょっと,ちょっと,眼鏡の旦那」
両側から誘いの声がかかる。ちょんの間なら一円五十銭で自分を売ろうという呼びかけである。。
....
ー野口冨士男,私のなかの東京,

tguugrtfg pc











[東京浅草] 玉ノ井私娼街
色街玉ノ井
■ある娼婦
....次の人生は浅草12階近く。街の人の話を総合すると,彼女が玉ノ井に来たのは大正12年のころ。
ーあのとき,浅草12階の私娼街が震災にあったのを契機に玉の井に来たんでさァ。
浅草でだいぶ金を稼いできたらしく,ここに来ると女を置いて商売を始めてねえ。しっかりもので商売上手。一時は店を数軒も持つまでになった。戦前ですがね。総檜の家を建てましたヨ。王ノ井じゃ檜御殿って呼んでました。戦争が始まっても紅灯は消えず。客の姿が見られなくなったのは空襲が激しくなってからと,終戦直後だけである。
戦後。玉ノ井の所業の形態は変わった。銘酒屋と呼ばれた私娼街から,型式もなにもない売春街へ。この時代も,婆さんはたくましくしたたかに生きた。金を貯めては家を求め土地を買う。ある時期の資産は億をこえたでしょう。私の古老のうわさ話。
震災から35年。脂粉,矯声の絶えることのなかった玉ノ井も,灯の消える日が来た。昭和33年4月の売春防止法の施行である。お婆さんもこれを機に商売を変えた。アパート業に。銘酒屋の経営者となり,アパート経営者となったりお婆さんには何かしら,華やかさが残った。小金に目をつけてあれこれいい寄る者が多かったからである。子供のないお婆さんは,知人の出入りは好んだ。かわりに見ず知らずの人は警戒した。お金を返さない人があったからだ。
.........
■玉ノ井私娼街
玉ノ井に私娼街ができたのは大正12年以降である。関東大震災で浅草透12階下の玉ノ井が越してきた。こんなものがあっちゃまずい,とお上の命令だったそうです,と街の古老。私娼のいる家を銘酒屋といった。かつては1階で酒を売っていたからである。銘酒屋は昭和にはいってますますにぎわいを見せる。当時の文人墨客はこの玉ノ井がよほど気に入っていたらしい。
「思いがけないころから徳田秋声先生があらわれるかと思うと,高村光太郎氏が一軒一軒,たんねんに
女いのいる窓を覗きながら歩いている。そういう光景はいたるところでぶつかった。私が玉ノ井でよく会ったのは武田麟太郎である」
と尼崎士郎は『わが青春の町』で記している。永井荷風の『墨東綺譚』,高見順『いやな感じ』,舟橋聖一『風流抄』。その文人たちの目に映った玉ノ井はどうだったか。尾崎士郎は『わが青春の町』で
「ほそい路地が縦横につらなり,さゆに曲がり,ひとたび此処に足を踏み入れたが最後,どの道がどこに繋がり,いったいどこへ出られるのか目標もつかなければ判断も出来なくなる」
と建て込んだ街並みを述べ,
「特の低い軒には必ず小さい窓がならんでいて,女たちが思い思いの声を張りあげて客をよんでいる」
と書いている。
..........
文人墨客が,女のいる小窓をざっとながめ歩いたころ,玉ノ井にはざっと500軒の銘酒屋が軒を並べ,私娼は1000人を超えていた。土曜日ともなると東武伊勢崎線の客はほとんどが「玉ノ井駅」で降りてしまう。それから先の電車はがらがらになる。駅から紅灯の街までの路地には肩をぶつけ合うように歩く男たちの列が続いた。その数は最盛期には1日に1万人にものぼった。当時浅草に住んでいた山崎墨田区長の談。
「浅草からくり込むんですが,当時,切符を買うのに,玉ノ井っていうのはだれもいません。みんな一つ先の鐘ヶ淵駅ってんです。料金が同じせいもあるん
でしょうが,やはりうしろめたかったんですかね」
...........
ー下町,朝日新聞社編, 朝日文庫,   

guhhuuuu pc