[鉄道] [東京大手町] 東京駅~戦後復興期の東京駅




1965








1972








1979



1979年
ホームの下の職場(東京駅)
八重洲コンコースを神田方向の北にいく。
売店や喫茶店の店並みがきれて、されに北にいくと、
左側に暗い通路がボカッと口をあけている。
入口脇に
「中央リネンサプライ新幹線東京事業所」、
「弘済整備新幹線事業所」
と二つの看板が並ぶ。
暗い通路は突き当りで左に折れる。
案内の矢印に従い階段を上がる。
目の前に鉄の螺旋階段がある。
人ひとりがやっと上がれる螺旋階段をぐるぐるとスクリュー状に登った先の場所はゴミの集積処理場。
到着した新幹線が吐き出した弁当ガラなどを詰めた米俵ほどの布袋が、そばのベルトコンベアに次々落とされてゆく。
ここは新幹線第8ホームの真下。
リンネンサプライの事業所はゴミ集積処理場のさらに奥にあった。
草野幸一所長(71)以下、所員は17人。
平均年齢50歳。
ほとんどは国鉄OBの人たちだ。
出発する「ひかり」、「こだま」は1日100本前後。
列車間隔が4分という時間帯もあり、かなりめまぐるしく働かねばならない。
到着した上り列車が、下り列車として発車するまでには、普通24~25分ある。
しかし、乗客の乗降にそれぞれ5分取られるので、清掃や備品装着に使える時間は14~15分しかない。
台風や事故などでダイヤが乱れると当然出発時間が変更になる。
出発ホームが変わることもちょくちょくある。
重さ15㎏の荷物をかついで16番線ホームから19番線ホームまで階段を渡って駆け付ける時など、
時間に追われてする仕事のつらさを思い知る事になる。
発車までに作業を終われずに所員が名古屋まで連れていかれる珍事が年数回あるという。
ホームの下だから天井は低い。
1m37cmの場所もある。
腰をかがめて歩く事に慣れたころ、
たいていの人はガツンとやる。
草野さんは頭のてっぺんに6針も縫った経験の持ち主だ。
いまでは天井を支える梁の角にフォームラバーのクッションが貼ってある。
「でもね、皆年の割に元気だよ。体を動かして働くのが健康にいちばん。アハハ」。
-岸本孝「東京駅物語」1980年初版刊,

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1979


1979年
日ゼニ200000000円(東京駅)
1日平均2億3844万円の駅収入(1979年)のうちの86%までを占めるのは切符の出札収入。
切符は1日平均14万2500枚売れる。
出札助役の部屋に、
「駅収入ベスト10」と、
「出札収入ベスト10」
の表がかがげてあった。
駅収入のトップは4億7363万4970円(1979年8月11日)。
この日の出札収入4億4万9280円(1979年8月11日)は出札ベスト10の2位で、
ベスト1は4億2865万2130円(1979年11月5日)。
この1979年11月5日という日は、国鉄運賃が一挙に50.4%も値上げになった日の前日。
定期券の買い替え客が殺到した。
その他の高収入日はお盆と暮れに集中する。
切符を売る機械は、
自動発券機が103台、
みどりの窓口のコンピュータ発券機が67台、
乗車券印刷発行機が22台、
千円札両替併用機が6台で、
合計98台を数える。
コンピュータ化、自動化がすすんでいるから、
出札係の人数は減っていると思いきやさにあらず。
出札助役をふくめて341人の現有勢力は、この駅の歴史の中でも、国鉄全体でみても、最高の人数になる。
-岸本孝「東京駅物語」1980年初版刊,

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復元まぢかの東京駅~復元の理由
2012/7/21(土) 午後 4:11 
駅舎建築を見る 建築デザイン
■創建当時の姿への復元工事中も終盤
大阪駅から、一転して今度は東京駅に。
で、東京駅といえば、やはり赤レンガで知られた丸の内駅舎。
一世紀の時を経てさまざまな変遷を遂げて来ているが、創建当時の姿への復元工事中も終盤に差し掛かり、この秋には完成の予定。既に全体像が現れてきている。
復元は、体裁と郷愁による意図だけでなく、駅舎自体が既に重要文化財に指定されているので、
文化財としての保存修復の一面をも持つ。
そもそも東京駅は、東海道線の起点である新橋駅と、北のターミナルの上野駅とを結び、国家的鉄道の起点
とする“中央停車場”として構想された。
明治29年(1896)の帝国議会で、中央停車場の建設が決定され、明治41年(1908)より工事が開始。
大正3年(1914)に開業した。
しかし、丸の内から八重洲のあたりは、もともと野っ原で、なんにも無いところであった。住民も
居ない状態だったが、その後、三菱財閥を中心として、一躍ビジネス街に発展していく。
そして、なんといっても目を惹いたのは、この赤レンガ駅舎。
言わずと知れた辰野金吾による設計である。葛西萬司らも設計に携わっているが、建築意匠としては、
辰野式が遺憾なく発揮された作品である。日本銀行本館とともに辰野金吾の代表的作品であり、
なおかつ日本近代建築の代表でもある。
辰野式の大きな特徴のひとつである赤煉瓦に白い石でラインを巻くスタイルがここでも用いられている。
ヴィクトリアンゴシックを範としたものである。
さて、辰野が参考にした駅としてアムステルダムの中央駅がよく言われている。
なるほど、確かに似ている部分もある。中央のマンサードの雰囲気など特に。
ただ、アムステルダムの方は建築様式がネオゴシックであり、東京駅とは大きく異なっている。
そのまま範としたものとは一概に言えないようだ。
まあ、どちらもさすがお国を代表する駅舎で実に壮観である。
■復元まぢかの東京駅~復元の理由
そもそもなんで復元なのか?
実は、丸の内駅舎は残念ながら、昭和20年5月25日の空襲で被害を受け、壁面を残し、屋根と内部を完全に焼失してしまった。(開業から31年目のこと)
終戦を経て、昭和20年の末より応急的復旧工事が進められ、昭和22年に規模を縮小した形で体裁を取り戻した。応急処置とは言うものの、結局、近年まで60年以上もその姿を留めた。
で、この戦後での主な変更点は…
3階建てであった駅舎を、中央の本屋を除い2階建てに低減。南北の大型ドームも4階建てから3階建てとなり、その屋根もバロック屋根から単純な八角形の直線屋根に変更された。これらは煉瓦壁が火災により耐久性が落ち、特に3階部分の被害が大きかったことによる。
中央屋の大屋根もなんと木造であったとのことで驚きだ。
つまり、今回の保存復元では、この逆のことを行っている訳だ。
だが考えてみると、赤レンガ駅舎の100年弱の内、2/3の期間は、この応急処置の姿だったので、こちらの方のイメージが強く焼きついている人が多いことだろう。
東京オリンピックの頃の東京駅
お気づきの人も多いことだろうが、赤煉瓦を間近で見ると、今なお満身創痍である。
空襲による焼け爛れた部分や、長年の間の欠損、亀裂が多く、補修部分で色が様々に異なっているところも多い。
復元完成秒読みの赤レンガ駅舎
ちなみに、ブラタモでも紹介されていたが、煉瓦と煉瓦の間をつなぐ漆喰が覆輪目地(ふくりんめじ)で
仕上げられている。手間のかかる作業がなされているが、これほど大振りな建築では、通常の目地では、
間延びしてしまうのも事実だと思う。

若葉マークの都市建築研究所
http://blogs.yahoo.co.jp/momonakai/

街角情報
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