神田青物市場




神田には江戸以来続く広大な青物市場がありました。
東京市神田青果市場は、従来の市場の問屋等を移転収容し、
昭和3年に営業を開始しました。後の中央卸売市場神田分場です。
書名等: 『東京市青果市場概要』 東京市商工課[編] 東京市 1930.3
請求記号: T/0・675/3051/G

都市・東京の記憶 
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国前神田駅西部を歩く。
駅近くの「神田多町」は古くは「田町」と書いて低湿の地であった。
神田青果市場の中旧式の1話その2丁目で記念碑がある。発祥は古く慶長の頃(1600年前後)であった。近くの神田橋,鎌倉町あたりのいわゆる鎌倉河岸では魚や青物,材木,竹,マキ,炭,カマの荷上げが行われて,そのため多数の街が町田が魚や野菜の盛んな流通の土地になったのである。
そのうち,土地の狭さから,魚市場は下流の日本橋に移されて,また築地に移ったのである。
青物市場のほうは関東大震災まで残って,今の秋葉原に移ったのである。
南のほうの鎌倉河岸に行く。
ここは歴史的に見ると東京港の発祥の地であった。
また港町の性格上,江戸遊里の発祥の地でもある。
多町,鎌倉町の中間の旭町は,昔,蝋燭町,南部町などの町名があって,紺屋町一体に続いて職人町を形成していた。
こういう環境から,職人気質とか威勢の良さとかが重んじられて,いわゆる「神田ッ子」と呼ばれる気風が生まれたのである。
「宵越しの金を持たねエ」ということも,それだけ腕に対する自信なり,経済上の活気があったためであろう。
鎌倉町,
旭町,
多町
の表通り,裏通りを歩くと出版,印刷,製本,紙問屋が多い。
実はこの業者は,その西方,三崎町方面へ伸びて大きな印刷製本業地帯を形成するのである。
その出版社500余り,
その取次40,
印刷所420
で,それらは皆中小企業である。
麹町,駿河台に多くの学校を持って,下町一帯の商業地帯を受け持って,書物,帳簿類,印刷広告用印刷から講義やテキストの印刷のものまで行われて,これが千代田区の最も盛んな工業なのである。
東京の印刷製本業は日本中で最も盛んな工業であるが,その中心はこの神田で,その他
神田川流域,
千川通り,
京橋裏通り
などに集中している。
神田橋から美土代町に行く。
大体,「神田」と言うのは
「神の田=美土代」
のことであって,伊勢神宮に米を奉納する御料地であったのである。
神田は南の大手町一帯にもあって神田明神が立っていた。
明神は家康入場後に湯島台に移されたが,「美土代」の地名はのこされた。
都電通りは
小川町→淡路町→須田町
と進んで北の交通博物館に行く。
ここは以前は万世橋駅であって,東京の盛り場であった。
交差点には日露戦争の旅順港攻撃の広瀬中佐と杉野兵曹長の銅像があって,国定教科書にも載っていて東京名所の1つであったが,戦後取り除かれてしまった。
交通博物館を持っているのは日本とソ連とドイツだけだ。
日本で初めて走った1号機関車をはじめ,機関車,船,飛行機,交通施設の模型が電気じかけで動かせるように陳列してある。
この辺から淡路町,岩本町にかけての通りは,洋服や既製服の問屋が続いて,なおその間に電気器具店が転々と続いている。
西の昌平橋に向かって進む。
南の方,淡路町に走る都電通り両側一帯は昔の「連雀町」であった。
慶長の頃,この辺は行商人が品物を入れて背負う者がこの道具(連雀という)を作る職人が多く住んでいたところであるが,明暦の大火後に火除地を作るために住民は都下三鷹村に移住させられて武蔵野開拓者となって,今の三鷹市発展のもとを作ったのであった。
また淡路町に「丹前風呂」と言う浴場があって,それからどてらを「丹前」という名称になる起源となった。
ー東京風土記/城西・城南編,サンケイ新聞社編,現代教養文庫,1967年

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