[[東京銀座]帝国劇場





明治44年(1911年)
帝国劇場が丸の内の堀端に開館したのは明治44年3月。
発起人の中は、初代会長の澁澤栄一をはじめとして、西園寺公望、伊藤博文など。
当時、水商売といわれ、まともな者が手を出すものではないとされていた劇場経営の役員に
 当時の一流の実業化が名を連ねている。
創立時の意気込みを知る事ができるが、
本旨は、当時、大国ロシアを敵に回して戦争に勝つほどの国力をほこるわが日本が
外国の賓客や使節を案内するに足る劇場がないのは恥ずかしかろうという事、
在野のいわゆる芝居者の手から劇場経営を切り離し
劇芸術の本拠を定め国立劇場に準ずる内容外観を持とうというのがその概略であろう。
華々しく開館式をあげた帝国劇場は、ルネッサンス風フランス式建築という事で、
すこぶるハイカラな、劇場という新しい名前にふさわしい装いであった。
地下一階をふくめた5階建て、従来の芝居小屋につき物であった茶屋、桟敷を廃して、
観客席はすべて椅子席とし、
定員1700名、別に食堂、喫煙室、売店などを備える余裕があった。
-中公文庫「石版東京図会」

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明治44年(1911年)
帝国劇場は専属俳優として、座頭・尾上梅幸、松本幸四郎、沢村宗十郎らの歌舞伎役者を揃え、
かねて養成中だった女優学校の第一期生11名もフットライトを浴びる事になった。
第一回公演、いわゆるコケラ落しには、大阪の人気俳優・中村雁次郎が一枚加わった。
-中公文庫「石版東京図会」

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明治44年(1911年)
今から16年前、帝国劇場が工事をおこして、鉄をたたく槌の音が盛んに響いていた時分、
わたしはある人に案内されて、その中に入ってみた。
あぶない足場を渡りながら、およそこれが舞台、これが楽屋という説明をきいた。
そうしてそこを出てすぐ隣の女優養成所も案内された。
そこで女優の舞踊や芝居のおさらえをみた。
森律子、村田嘉久子、初瀬浪子などという名前をおぼえた。
それらの人々はいずれも二十歳ばかりの娘盛りであった。
帝劇が完成して華々しく開場したおりには、
私も賓客の一人として招待された。
赤いじゅうたんをしきつめた階段の上を皆がおそるおそる踏んだ。
中に慣れた素振りで平気で闊歩する人も、ひそかに靴の汚れを気にした。
-高浜虚子「東京繁盛記」

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