[東京本郷] 本郷通り






クリームパン誕生
クリームパン生みの親は新宿の中村屋である。
中村屋が本郷の東京帝国大学前にパン屋を開業したのは明治34年12月30日のことであった。
相馬愛蔵・黒光夫妻はともに学生時代からパンに親しんでいた。
黒光は女学生時代を横浜のフェリス女学院で過ごしている。
ミッションスクールでは当時から西洋料理のマナーがあり、パン食は当たり前、黒光はフェリスの寄宿舎で横浜ベーカリーのパンは食べてきた。一方愛蔵も早稲田の学生時代に牛込の教会で、パンに親しんでいる。
しかしだからといって安直にパン屋を始めたわけではない。
パンは、始め在留の外人だけが用いていたが、その頃ようやく広まってきて、次第にインテリ層の生活に入り込みつつあった。
しかし、このパンが一時のはいから好みに終わるものか、それとも将来一般の家庭に歓迎され食事に適するようなものになるのか、商売として選ぶにはここの見通しが大切であった。
そこで 相馬愛蔵・黒光夫妻はこれは自分たちで試してみるが第一と、早速その日から3食の2度までをパン食にして続けてみた。
副食物には砂糖・ごま汁・ジャムなどを用い、見事それでしのいでいけたし、煮炊きの手間はいらないし、突然の来客の時などさらに便利に感じられた。
このようにして試してみること3ヶ月、パンは将来多いに用いられるなという見込みがついた。
中村屋の創始者である相馬愛蔵は、当時を「一商人として」の中でこう語っている。
「ある日わたしは初めてシュークリームを食べておいしいのに驚いた。そしてこのクリームをアンパンの代わりに用いから栄養価はもちろん、一種新鮮な風味に加えてアンパンよりは一番上のものになると考えたのである。早速作って店に出すと、非常に好評であった。
クリームパンとワッフルはその後他の店でも作るようになり、全国津々浦々まで行き渡ったことは私としては愉快に感じている」。
(小管桂子 日本洋食物語大全)

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日本で最初にコーヒーという文字が登場するのはおそらく1800年の「長崎見聞録」ではないだろうか。
「かうひいは蛮人炒って飲む豆にて、、、日本茶を飲むごとくに服するなり。かうひいかんは、かうひいを浸す器なり。真鍮にて製す」。
一般には「明治事物起源」にあるように、明治2年の「開智」7編に加否の言葉が現れて、明治4年秋の「往来」には架琲、明治5年4月の「衆録」には「肉を食べた後には必ず珈琲を飲む可し。脂を去る効あり」とあるが、コーヒーが活躍するのはもっぱら活字の上でのみであった。
日本にコーヒー店の第1号ができたのは明治21年の4月の事であった。
「可否茶舘」と言って、上野西黒門町に開店している。
店は2階建て青ペンキ塗りの西洋館で、扉を開けて入るとすぐに玉突き台があって、二階に登ると喫茶室。そこにはコーヒーばかりか、洋酒やビールもあり、トランプや囲碁や将棋もでき、内外の雑誌や便箋まで揃っていたという。
この年の5月に創刊された「我楽多文庫」第1号に掲載された「下谷市黒門町可否茶舘告条」によると、「さらに化粧室という粋な別室もあるので、そこでおめかしができた」、「夏の暑い盛りには湯殿と氷室を設けた」との記載もある。
明治21年4月13日の読売新聞にも開業案内がある。
「遠からん者は鉄馬馬車になってきたまえ。近からん者は、ちょっとよって一杯喫したまえ。」という鼻息だ。
可否茶舘の経営者は中国人で、コーヒーは一銭五厘、牛乳入りコーヒーは2銭だったという。2号店は浅草にできている。
当時は珈琲店ができると新聞に応じられるくらい難しいことで、それだけで話題を集めたのである。
ところがその人気も長くは続かなかった。両店とも数年にして店をたたんでいる。ちなみにこれ以前、可否茶舘以前にも日本橋小網町に「洗愁亭」という珈琲店があり、それは明治19年11月13日の開店だったという記録もある。しかし残念ながらこれ以上の治療は何もない
その後本郷の帝国大学近くに青木堂という喫茶店ができた。青木堂は、コーヒーと並んで明治7年開業の麹町の村上開新堂のケーキを看板に、ひたすら繁盛していたという。
青木堂も、資料が少ないが、明治の末に村上開新堂に小僧として入り、青木堂に毎日ケーキを運んでいた人がいる、後に昭和天皇のお食事係として大正11年から昭和51年6月まで宮内庁大膳課の長を務めた中島伝次郎さんである。
「3日以内まで言う明治屋のような店で2階が喫茶店になっていましたね。私の村上開新堂に小僧に入ったのは13年、最初の一年間は牛乳配達のような箱車に出来たケーキを乗せて配達するのか毎日の仕事です。
私は明治30年の3月3日生まれですから、小僧になったのは明治42、43年でしょうか。筒ぽの着物に角帯、それに地下足袋を履いて箱車を引いて麹町から本郷まで行くんですが、子供だからつらかったですね。しかしそんな子供心にも、青木堂のコーヒーの香りは何とも言えずには素敵でしたね」。
青木堂は、おそらく今日の喫茶店の基本形ではなかったかと思われる。ひたすら繁盛していた店であったが、しかし明治も40年代になると喫茶店はカフェという名前の元に大きく様変わりして発展期に入って行くことになった。
(小管桂子 日本洋食物語大全)

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夏目漱石『こころ』
私はとうとう万世橋を渡って、明神の坂を上がって、本郷台へ来て、それからまた菊坂を下りて、しまいに小石川の谷へ下りたのです。

下町文京区
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