浅草水族館




花屋敷
明治30年(1897年)、すでに浅草で大規模な事業を展開していた大滝勝三郎が経営を引き継ぐ事になりました。
その頃の浅草は、活動写真の上映が開始、浅草水族館が開館、日本初の活動写真館「電気館」が開館など、
徐々に流行の場所になりつつあったと言います。
大正15年頃の花やしき花屋敷はといえば、四季の草花、盆栽などから動物の飼育をし、
生き人形、西洋あやつり人形、山雀(やまがら)奇芸などの見世物をそろえ、
ブランコ、すべり台など所々に子供が遊ぶ遊戯機器を設置。
また大阪博覧会などから珍しい動物を次々に仕入、内容は勿論、動物の飼育技術も発達させ客を引き戻していったそうです。
そのまま繁栄は、大正になっても続き、世界でも珍しい五つ子のトラが誕生などの話題を提供していました。
しかし、大正12年、関東大震災で崩壊。花屋敷自体は少ない被害ですみましたが、
難を逃れた人々の集合場所となり、動物が脱走したら危険と判断され、多くの動物達は薬殺されてしまいました。
ライオンの赤ちゃんを抱っこ昭和に入り、また動物の飼育を始め細々と営業を再開しました。
昭和5年(1930年)、関東大震災で犠牲になった動物のための「鳥獣供養碑」が建てられ、
今でも花やしきの築山の横にあります。
さらに翌6年には、日本初のライオンの赤ちゃんが生まれています。
まさに花屋敷が、江戸時代の奥山の見世物全体を再現したと言えるのではないでしょうか。

神田雑学大学 
kanda-zatsugaku.com/070914/0914.html










1928
死なない蛸
萩原朔太郎
ある水族館の水槽で
久しい間、飢えた蛸が飼われていた
地下の薄暗い岩の影で
青ざめた玻璃天井の光線がいつもかなしげに漂っていた
だれもその薄暗い水槽を忘れていた
もう久しい間蛸は死んだと思われていた
けれども動物は死んでいなかった
蛸は岩陰にかくれていたのだ
そして、彼が目を覚ました時、
不幸な、忘れられた水槽の中で
幾日も幾日も、おそろしい飢餓を忍ばねばならなかった
・・・・・
―萩原朔太郎詩集,1928年初刊,
―日本の詩歌11-萩原朔太郎,中公文庫,1978年刊,

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