[東京本郷] かねやす



かねやす~本郷もかねやすまでは江戸の内~
筐底(きょうてい)にわがいつの日の寒紅ぞ  淡路女
淡路女さんのような古い女流でも「わがいつの日の」というほど、寒中の丑の日につくった紅を寒紅といって喜んで用いたのは、おそらく大正までであろう。本郷の「かねやす」にはもちろん、どこの小間物屋でも、貝や盃入りの玉虫色に光る小町紅を売っていた。
石田波郷『江東歳時記』(向島で)
東京メトロ丸ノ内線本郷3丁目を下りる。
森鴎外の小説『青年』冒頭で、「小泉純一」が歩いた道である。
小泉純一は芝日蔭町の宿屋を出て、東京方眼図を片手に人にうるさく問うて、
新橋停留場(ていりゅうば)から上野行の電車に乗った。
目まぐるしい須田町の乗換も無事に済んだ。
さて本郷三丁目で電車を降りて、追分から高等学校に附いて右に曲がって、根津権現の表坂上にある袖浦館という下宿屋の前に到着したのは、十月二十何日かの午前八時であった。
『青年』
国道17号(中山道)と国道254号(春日通り)の交差点に「かねやす」がある。
兼康祐悦という口中医師(歯科医)が乳香散という歯磨き粉を売り出した。
大変評判になり、客が多数集まり祭りのように賑わった。
(『御府内備考』による)
享保15年大火があり、防災上から町奉行(大岡越前守)は3丁目から江戸城にかけての家は塗屋(ぬりや)・土蔵造りを奨励し、屋根は茅葺を禁じ瓦で葺くことを許した。
江戸の町並みは本郷まで瓦葺が続き、それからの中仙(中山)道は板や茅葺きの家が続いた。 
その境目の大きな土蔵のある「かねやす」は目だっていた。
「本郷もかねやすまでは江戸の内」と古川柳にも歌われた由縁であろう。
-郷土愛をはぐくむ文化財-
文京区教育委員会

私の旅日記~お気に入り写真館~
http://book.geocities.jp/urawa0328/sitamati/kaneyasu.html




1880
老舗「かねやす」
本郷の回覧板『昔空間散歩の薦め』
本郷 -菊坂の与太郎
『一葉忌』
本郷三丁目 界隈【H20年版】
■第一部「一葉さんこんにちは」
基点 丸の内線 『本郷三丁目駅』 ホームから上がり、身支度(洗面)を済ませたらイヨイヨ改札を出ましょう。
この駅は待ち合わせにピッタリ、なにせ改札が一つです。
スタート時間にもよりますが、「法真寺」の「一葉忌」は毎年9時半から始まります。
まずは「法真寺」へ向かいましょう。
①改札を右に出て名曲喫茶「麦」の前を通り本郷通りに出ます。
通りに出て左、「本郷三丁目交差点」に向かい歩きます。
本郷三丁目交差点では、老舗「かねやす」が渡る手前にあります。
勿論、樋口一葉がいたこの頃は、まだ市街車電車(開通は、須田町線がM37/01
・上野広小路線は、M37/11)軌道も本郷三丁目には無い頃で、明治22年迄の拡張前は老舗『かねやす』も「三原堂」のもっと横断歩道側にあったわけです。
明治24年8月3日「かねやす」にて小間物をととのふ、日暮れて帰る」とある。
 丁度、その頃の本郷三丁目の写真があるので小さいですが情報として載せておきます。 
・その2ヶ月後の明治24年10月15日仙臺堀は神田川の、上水樋橋の下流に、新しい橋が架かりました、
その橋は鉄で出来た現在の「新御茶ノ水橋」です。
開通、その二日後。
明治24年10月15日「今宵は旧菊月十五日なり。
・・・いでやお茶の水橋の開橋になりためるを行みんなはなど国子にいざなはれて、母君もみてこなどの給ふに家をば出でぬ。」
とある。
M24/1以降の春日通り(蔵書 ふるさとの想い出 写真集 MTS 文京 P25より)国書刊行会発行
現在の『かねやす』前を通り、横断歩道を渡るとサファリ帽を被った素敵な髭のお巡りさんがいた本郷四丁目の交番、その裏左手奥には、一葉(なつ)・クニらが散策した【本郷薬師】が見える。
明治26年3月12日のよもぎふ日記に
「今宵」くに子と共に薬師の縁日そぞろありきす。」
とあります。
でも今は寄らないで直進。
足元に気をつけると緩やかな下り坂《見送り坂》
「橋南三丁目」
美味しい甘食の「明月堂」前を通る、そして昔の太田領の境であった【東大下水支流】の橋跡を渡りパチンコ屋さん前を通ると、菊坂通り入口に差し掛かります。「東大赤門前」へ向かう・・すると緩やかな上り坂これを《見返り坂》「橋北五丁目」と云います。
そのまま直進して行くと道路反対、なにやらTVで見たビル。
『角川書店』ビルです。
今度は、左手にちょっと凹んだところが在ります
・大正10年 (1921) 1月上京、同年8月まで「宮沢賢治」が菊坂下道に下宿し生活の糧に、文信社(現大学堂メガネ店)で硬筆(ガリ切)、謄写版刷りの筆耕や校正などをした出版社前を通過。※別情報あり
もう右手先には東大赤門が見えていることと思います。
アト、ちょっとです写真屋さんが左にありますか? あれば間違っていません。
この写真屋さん『須藤カメラ店』は、先のノーベル物理学賞受賞したカミオカンデで有名な小柴先生や皇太子妃雅子さまの記念写真を撮影した写真屋さんです。
赤門前の和菓子「扇屋」前を通過し、赤門ビル角「今はコンビニ」を左に曲がり奥へ進みます。
左に急に開ける駐車場が『櫻木の宿跡』ですその奥が「法真寺」受付で記帳し、到着です。
※今回わび亭さんとは昨年、お逢いした「櫻木神社」前で、お会いし薬師堂前を通過法真寺へ向かいました。 
H20.11/23 与) 
②1876(M9)-「法真寺」手前 一葉4歳が幼い時幸せな時を過ごした大切な場所。
■御守殿門内部から見た【櫻木の宿】修復を待つ赤門内から 1925(大正14)年の写真の右側が「赤門ビル」その間にかわら屋根の二階家がある。
櫻木の宿が何時、壊され建て直されたか判らないが馬車と一号ポストがあるビルとの間、路地奥に見えるのがひょっとすると、櫻木の宿内の3坪程の瓦葺二階家屋部分かも知れない。.
⇔1925(大正14)年 修復を待つ「赤門」より 本部施設部所蔵写真よりトリミング  法真寺に隣接したi庭にはシンボルの櫻の木と池そして倉もある、二階屋に一葉一家は住んでいた。
経済的にも家庭的にも恵まれていた時代、M10元町に存在する頃の「旧・本郷小」から秋には家の近く、私立吉川小学校へ通った。
「ゆく雲」 『上杉の隣家は何宗かの御梵刹さまにて寺内広々と桃桜いろいろ植 わたしたれば、此方の二階より見おろすに雲は棚曳く天上界に似て、腰ごろも観音さま濡れ仏にておはします御肩のあたり 膝のあたり、はらはらと花散りこぼれ・・・』とある。※また福満氏の話では法真寺入り口の角、医療器具屋の「お婆さん」が幼い頃「なつ」ちゃんと遊んだと話していたそうである。
③「附木店」 1877(M10)03 旧・本郷学校に入学後、秋に近所の私立【吉川学校】に入学。
④「不求橋」「本妙寺谷」-「番所跡」-「本郷丸山局店」
⑤「丸山通」【下道】大下水の当時を偲びながら歩く。
⑥宮沢賢治の菊坂下宿前通過
⑦「炭団坂」下の二等辺三角形
⑧「まちのえき」そして、一葉井戸界隈70及び69へ
・1883(M16)11歳の時青海学校小学高等四級首席で卒業するも母の反対に遭い退学する。
・1886(M19)中島歌子の歌塾{萩の舎}に入門-1889(M22)17歳の時父が事業失敗後、病没。
  母そして妹クニと共に次兄「虎之助」宅へ同居するが折り合い悪し×
・1890(M23)09 懐かしの本郷區へ    ・・選んだのは菊坂であった。
■第二部「一葉さんこんにちは」
⑨一葉井戸近くの最初の家70番地に転居したのでした。その後69番地に移ります。  
⑩真砂町・鐙坂の事。
⑪伊勢屋質店内見学をし姉の久保木方位置確認
 ・1893(M26)2/1下谷區龍泉寺町に転居、荒物・駄菓子屋を営む。
⑫1896(M29)24歳「たけくらべ」を「文芸倶楽部」に発表。11/23日肺結核にて没。
偲びつつ終焉の地を訪ねたいと思っております。
菊坂の与太郎・・・つづく

本郷界隈  古い資料による散歩
http://www.geocities.jp/jf1zhe/ichiyouki1.html









1967
本郷三丁目を中心とした本郷の商業センターを案内する。
文京区全体を見渡したときに,商店街として目立つ所はここくらいのものである。
ところがこの本郷3丁目付近は商店街としてはあまり育たないと言う。
他の地区から買い物に来ないばかりか,付近の準備すら日用品の買い物だけで,時間に多少のゆとりがある人は散歩がてらに上野広小路に出かけてしまう。
松坂屋の本館や新刊がデンと本郷台を見上げているからにいるからである。
加えて広小路の商店街が控えて,アメヤ横丁は食料品を安価で提供してくれるし,上野は何とも言えない魅力がある。
地下鉄丸ノ内線の開通がこの傾向に拍車をかけたようだ。池袋には大きなデパートがいくつもあって,西銀座にもわずかな時間で行けるので,何も本郷で高い商品を買わなくても良いと言う心理は消費者としては当然のことである。
地下鉄駅の本郷三丁目や茗荷谷に立って地下鉄から降りる人を見るがよい。
彼も彼女も包装紙は著名デパートのものであることに気づくだろう。
戦前,本郷には名画を観せる映画館があった。
ところが戦後にこの映画館はついに再興されなかった。
その理由は小さい商店街の嘆きと全く同じ理由によるものだ。
小売商業地区と言う立場に立って本郷三丁目を眺めて,文京区全体を見渡すときに,「斜陽」という言葉が当てはまるのではないだろうか。
「本郷もかねやすまでは江戸のうち」
と言う句がある
江戸の基礎が固まって,江戸が大消費者地として発展するにつれて,大名屋敷もまた外へ外へと押し出されていった。
特に振袖火事以後の郊外への発展は目覚ましいものがあった。
しかし江戸初期にはここ本郷3丁目付近が町外れであった。
句の「かねやす」と言うのは今、3丁目近くの洋品店「かねやす」とのことであった。
だからこの店は江戸初期からずっと続いた店だと言うことになる。
昔は東大赤門のある前田家ほか大名屋敷に出入りしていた小間物商店であった。
近年店構えも近代風にして洋品店となって再出発したのである。
今からおよそ150年ほど昔の文政年間,港区芝明神町の小間物屋に,兼安祐源というものがいた。
ところがこの人,本郷のかねやすと小間物問屋の元祖争いを起こした。
互いに元祖はこちらだから称号はこちらだけと言うのである。
この元祖争いは次第に激しくなって,終いには町奉行へ訴え出て採決を受けることになった。
のれんを尊重する江戸時代のことであって,両方ともに売り上げの良い店であるだけに必死の争いだったに違いない。
なにしろ元禄時代に堀部安兵衛の筆による看板は双方ともに持っていると言うだけに,町奉行もその採決に相当苦心を払ったことである。
その時の判決文は次のとおりである。
「本郷は『かねやす』で平仮名書き,芝は『兼安』で漢字書き,この店ともにカネヤスとする」。
名判決である。事の真偽は別として今日でも一服の清涼剤である。世はこのようにうまくいかないものであろうか。
この辺を中心とした街街は一面の医療器製造所と販売店である。これは近くに
東京大学医学部,
東京医科歯科大学,
順天堂医科大学
などの大学があって,またここから駿河台にかけては有名な病院が多くあるからである。
ー東京風土記/城西・城南編,サンケイ新聞社編,現代教養文庫,1967年

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