新宿駅東口
新宿駅西口
1976
1976
1976
酒場物語
新宿三越裏にその店はあった。。
店の名前は
「どんがばちょ」
勿論、NHK放映のひょっこりひょうたん島の登場人物の名前である。。
そのお店は当時、新宿の穴場特集などに取り上げられていたお店として雑誌などでは見ていた。。
三越裏は私たちより上の世代で60年代に世の中を斜めに見るような若者達の溜まり場として文中にも登場した
「風月堂」
があった場所に程近いのだ。。
それだけでも、わくわくものだった。。
ここが元、「風月堂」のあった場所ね。。
風月堂、と言っても、ゴーフルが有名なお菓子のそれではない。。
作家:森 遥子や鈴木いずみの著書にたびたび記述してあったそれである。。
風月堂はなくなっていたが、「青蛾」はまだ営業をしていた。。
近辺には丸山明弘(現:三輪)・寺山修司・三島由紀夫の通っていた
「どん底」
「やま小屋」
があり、みんな暖簾分けをした繋がりがあったようだったが、私は迷わず、一番、健全そうで、一番素人を受け入れてくれそうな
「どんがばちょ」
を選んだ。。18の秋。。。。
私は失恋したのだった。。
その年の6月に知り合い恋に落ち、秋に失恋。。
思えば私のたった一度の「ふられた恋」初めて「大人を意識した恋」だったのに。。
たった3ヶ月の恋に中々立ち直れなかった私は夜の街をさ迷った。。
私から彼を奪ったのが飲み屋さんの女性だったから。。
私は子供っぽい、と言う理由で振られちゃったのだった(笑)
友達とディスコで踊り明かしても、私の心の穴はちっとも塞がらなかった。。
私の穴ぼこ、どうやったら埋まるんだろ。。
友達といるのが辛かった。。振られた惨めな姿をさらすのが惨めだった。。
友達の慰めは私の心を素通りしていった。。
18の娘が飲んだ。。自分を知らない人達の集まる酒場で飲んだ。。
友達や新しい恋によってではなく、一人でもがいてぶち破りたかったのだ。。
どんがばちょ。。そこは無人島の洞窟のような店だった。。
でこぼこの壁は漆喰で覆われ、毎夜の酔客の煙草の煙で燻されて、いい色に変色していた。。
背の高い男性には頭がつかえてしまう低いでこぼことした天井。。
洞窟の壁を繰り抜いたような椅子席とカウンター。。
私のお気に入りの席はキャッシャーカウンター横のカウンター席の端。。
ここに座ってカウンターのおにいさんとお喋りしたりお客さんと他愛もない話をしながら飲んだ。。
自分を見つめなおす為に、知らない人の話を聞いた。。
自分を甘やかす事の無い他人の考え方に触れることで、私は新しい自分を形成していた。。
どんがばちょで真っ先に思い出すのが「がばちょライス」
キャベツの千切りを牛ひき肉と炒め、ガーリックパウダーを利かせて、ウスターソースで味付、付け合せは紅しょうが。。それがカレーのようにご飯の横っちょにこんもりと盛られているとってもシンプルな、でも、今迄食べた事の無い料理だった。。
ウスターソースのシンプルさをガーリックパウダーが妙に引き立てて、何故かとっても美味しい。。
夕食を取ってなかったり、小腹が空いた時にいつも頼むメニューで、未だに我が家の日曜のランチメニューになっていたりする。。
他に何があったか、あまり覚えてない。。
私はすっかりお店の常連、と呼ばれる人になっていたようだ。。
知らない人が友達になった。。
お店のお兄さんたちとも顔見知りになった。。
行き始めて数ヶ月たつ頃にその店に支店が出来た。。
それが新宿三丁目、末広亭前に出来た「ぼでごん亭」だ。。
がばちょが12時に閉まると、いつしか2時まで営業しているぼでごん亭に流れるようになり、そのうちに私のお気に入りはがばちょからぼでごん亭へと移っていった。。
どんがばちょもどん底ややま小屋の暖簾分けで出来たお店で、ぼでごん亭も支店とは名ばかりで、全く、趣きが違っていた。。
末広亭前の通りには気の利いた飲み屋さんが軒を並べていた。。
近くではあるが要町通りよりはあやしくない。。
狭い階段をおりて入店する猿のこしかけなども若者が集まる飲み屋さんだった。
私の放浪は相変らず続いていた。。
ぼでごん亭の従業員は全て男性で、しかも、素敵な男性が多かった。。
ツータックの幅広ズボンにブランドのネクタイ、煙草を吸おうとすれば、どこからともなく、カルティエやダンヒルのライターが飛んできて、膝まづいて火をつけてくれる。。ホストクラブちょっと手前のようなお店で女性客にはとても気持ちのいい場所だったが、良いのは、男性客も負けないほどいることだ。。
ここの従業員の躾の良さを示すところだ。。
スペイン料理を主体とした料理も美味しく、ホタテ貝のフリッター、白身魚のエスカベーションはお気に入りだった。。
ただ、25年近く前でボトルキープ代が
サントリーの角瓶4500円、
オールドが6000円
と言うのは破格に高かった。。
たまに友達を紹介したり、店長さんの機嫌が良かったりすると、ボトルを内緒で入れてくれていたのは、若い女の子だった特権だったかも。。これは内緒の話である(笑)
それでも、2年近く通って、カウンターに陣取っては、つまらない話をして浮世離れしていたっけ。。
ぼでごん亭の営業時間はAM2時迄だったので、それから二丁目のゲイ・バーや当時で言うカラオケ代わりの弾き語りのお店によく連れて行ってもらってた。。
週末にはオールナイトで映画を見ることもあった。。
末広通り、御苑口にあるラーメン店「桂花」
遅くまで営業しているこの店の高菜が山盛り乗っている桂花ラーメンは私の大好物!
大きな豚の角煮がこれでもかっ!って乗っかっている太肉(ターロー)メンは仕事を終えた飲み屋さんの従業員の活力源になっていたようだ。。
お店がはねるとたまに従業員さん達と食べに行った。。
あの頃は深夜食を気にするようなことは全くなかったな。。
この時間になると客層もぐっと変わる。。
演歌歌手を目指している男性、小説家希望の女の子。。小説家だと自分では言っている売れない小説家。。TVのプロデューサー。。シーズンオフの野球選手やプロレスラー。。そしてたまに人気俳優などなど、曰く付みたいな人達が街に出てくる。。
そんな人達のこれまた浮世離れした話を聞いているのが面白かった。。
今、考えると、本当に怖いこと一つない、恐れ知らずの放浪だった。。
そしてそれがとても、心地よい場所になっていた。。
あの頃、私は何故、一人で酒場に行っていたのだろう。。
大学の友達とは六本木や赤坂のディスコで遊び、楽しかったことは楽しかった。
だけど、何かが違ってた。。
当初は失恋の痛手を晴らす、なんて目的だったが、それは単に失恋の痛手を晴らすだけではなかった気がする。。
言ってみたら、危険と裏腹な環境に友達を引き入れたくなかった。
私はいい。。私は自分で選んで、この場所にいる。。
人や時間の流れを自分の目で見て感じている。。
でも、友達にそれを説明するのは不可能だったし、万が一のことがあったら大変だ。。
それにこんな風に時間を自由に使える人もいなかったから。。
当時、家の建て替えをしていて、アパートを一つ丸ごと借りて、家族が別々の家に暮していた。。
そんな条件が重なって、私は咎められることなく夜遊びをしていたのだ。。
私は自分の好きに時間を使い、自分の好きな時間にタクシーで家に帰ってた。。
決して、泊まることはしなかった。。
朝、家にいれば両親は一応、安心していたようだ。。
滅茶苦茶ながらも自分にとっての決まりみたい物は守ってた(笑)
あの頃は、家の建て替えと言っても、それだけではなく、祖父が亡くなって以来、廃墟のようになっていた部分にやっと手がくわえられるようになり、父の仕事場、住居、賃ビル部分と大事だったので、両親も私一人に目を配ることが出来なかったのだ。
あの頃の新宿の街はそれまで本で読んでいたことがライブで行われていた。。
文字の世界での情報が目の前でライブで繰り広げられるのだ。。
みんなに一つ一つドラマがあった。。
私はそのドラマを見続ける贅沢な観客だったのかもしれない。。
完全に自分を外に置いた、言ってみたら現実逃避の何ものでもなかっただろう。
そんな放浪も20歳になってぴたっとやめた。。
あの頃の知り合いはまるで本の中の登場人物のように誰一人、今、どこで何をしているのか知らない。。
25歳の頃、とても近い場所で仕事をしていたが、一切近づかなかった。。
自分なりに幕をおろした世界の幕を上げることは二度となかった。。
最近、オフ会の場所検索でちょっと懐かしくなって見てみたら、ぐるなびにいくつかのお店の名前を見つけた。。
いまだ変わりなく、営業を続けているのを見て、ちょっとくすぐったくもあり嬉しくもあった。。
新宿酒場物語、私自身ももしかしたら、誰かの胸の中に登場人物として足跡をのこしているのかも知れない。。
眠らない街新宿で繰り広げられた不思議な物語。。
70's~80's
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Kaede/6708/castele.htm
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Kaede/6708/vibros.htm
https://www.yukari.ne.jp/miho/cgi-bin/bbs1/xmas_bbs1/mimic2.cgi