新宿駅東口の歓楽街,1928/2




新宿駅東口の歓楽街。
当時の住所は新宿ではなく大久保。
映画館の武蔵野館、新宿ムーランルージュなど、
新奇な西洋文化にふれようと人が押し寄せた。
この地を愛した文化人も多く、書籍の記録に多くのこる。
1920年代。

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1930
無声映画と武蔵野館
武蔵野館
大正から昭和の初期にかけては、映画が娯楽の中心でした。新宿には洋画封切りの武蔵野館やセカンド館の昭和館、日活封切りの帝都座や松竹館など数多くの映画館が集まり、たいへんなにぎわいをみせていました。
特に武蔵野館は、まだ新宿が場末であった大正9年(1920年)に、地元の商店主が人々を呼べる文化的な町にしようと資金を出し合って建てた映画館で、700席を擁する大きな建物でした。
良い映画を上映する映画館として洋画ファンに定着し、大正12年の関東大震災後は、被害も少なかったため連日満員の盛況となりました。
その頃はまだ無声映画の時代で、日本では字幕と場面の状況を解説してくれる説明者(弁士)がつきました。
その映画説明者の良し悪しが映画の印象を左右するほどで、映画館に通う人々はそこの映画館の説明者のファンとして見にくることも多かったのです。
武蔵野館では、大正14年に主任弁士として徳川夢声を迎えています。
また、楽士が生演奏する無声映画の伴奏音楽も人々を魅了しました。
無声映画全盛期には封切館はみな良いオーケストラをそろえ映画の間に休憩奏楽も行って、
蓄音機やラジオがまだ少ない当時の人々にクラシック音楽を聞く貴重な機会を与えていました。

新宿中央通り商店会
http://www.shinjuku-ohdoori.jp/h03-08.html



















昭和2年には明治通り沿いから新宿ビルディング1fに駅舎を引っ越しさせました。
上写真の右図はその新宿ビルディング1fの新宿追分駅より発車しようとしている電車です(昭和7年)。このビルには「新宿松屋」や「呉服屋」などが入っていてまさに
 ターミナル駅という感じだった様です。
この後の昭和5年に「四谷新宿」と改名・昭和12年に「京王新宿」と再改名しています。
下写真は現在の京王ビルがある場所です。
上写真とぼ同ポジですが時代を感じる対象的な写真です。
追分という名前はそのまま使われています。

京王線・新宿駅の歴史