[東京] 吉原遊郭

東京鶯谷。
1982年。
ちくま文庫「赤線跡をたどる」よら引用。


1985









看板の変化
以前は芝居にとって重要な意味を持っていた看板であったが,明治維新以降は劇場の変化に伴いそのあり方も大きく変わっていくことになる。
ごく簡単に近代劇場の看板について触れておこう。
時代が明治時代になると演劇改良運動が進められたが,その中で歌舞伎の内容はもちろんのこと,劇場の形式にも変更が加えられた。
1872年(明治5年),江戸三座のひとつ「守田座」は従来の猿若町から新富町に移転して,「新富座」と改称した。
その建物は1876年(明治9年)に消失して, 2年後に新しく建て直された。
その際,櫓をなくすなどいくつかの重大な改革が行われたが,看板についても
大名題看板,小名題名看板,絵看板
を残したのみで釣看板などを他の看板を廃止することになった(服部幸雄「大いなる小屋」)。
その後も看板簡略化の動きは進行して, 1919年(明治22年)に完成した歌舞伎座では,看板は建物脇の掲示板にまとめられてしまった。「風俗画報11号」(1889年)には
「正面絵看板などを用ひず,門内別に銅葺の看板掲示場を設けて,檜板の大看板に会場の開日,大名題および浄瑠理名題などを座主・福地桜痴居士自筆にて大書せり」。
とある。
新しい劇場の登場は,近世に守られていた各種の看板の約束事を失わせて,ついには絵看板位しか残れない状況が訪れることになる。
もちろん,これは看板だけに起こった現象ではなくて,劇場の市中進出や,建物の構造・デザインの西洋化,舞台の額縁化や客席の椅子化など明治から昭和初期にかけて様々な変化が起こった後であった。
つまり看板の変化も,劇場や芝居街のあり方に左右されて引き起こされたものだといえるであろう。
−「看板の世界–都市を彩る広告の歴史」,船越幹央,大功社,

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1928
吉原
萩原朔太郎
高い板塀の中に囲まれている
薄暗い陰気な区域だ
それでも空き地に溝が流れて
木が生え
白き石灰酸の匂いはぷんぷんたり
吉原!
土手に死んでいる蛙のやうに
白く腹を出している遊郭地帯だ
かなしい板塀の中の囲ひの中で
おれの色女が泣いている声をきいた
夜つびとへだ
それから消化不良のうどんを食って
煤けた電気の下に寝そべっていた
「また来てくんろよう!」
曇った絶望の天気の日でも
女郎屋の看板に写真がでている
―萩原朔太郎詩集,1928年初刊,
―日本の詩歌11-萩原朔太郎,中公文庫,1978年刊,

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吉原, 1867年






1700
江戸の遊郭
江戸時代,幕府容認の遊郭と言えばまず「元吉原」,吉原から移った浅草田圃の「新吉原」が挙げられる。
その他,品川,新宿,板橋,千住のいわゆる「江戸四宿の遊郭」をはじめ,音羽,根津などもぐりの遊び場もあり,こちらは「江戸岡場所」と呼ばれていた。
「岡場所」の「丘」は「他」のことである。
「岡目八目」と言えば「他人がよく見ればよく気づく」と言う意味であり,「岡惚れ」は惚れてはいけない他人の女房に惚れること。
また「岡っぴき」と言えば公では無い私立刑事みたいなものである。
「岡場所」はしたがって官公庁の許可のない潜りの場所であった。
江戸の歴史を見ると,火事の多さには到底かなわないが,岡場所の弾圧や禁令もかなりの数になる。
例えば享保8年(1723年)5月3日には,音羽の護国寺門前/根津宮永町の娼婦が検察を受け,
享保3年(1746年)2月6日にも根津宮永町から50人の娼婦が捉えられて浅草の吉原に移されている。
ことに有名な水野忠邦による天保12年(1841年)の改革で,日本橋堺町と葺屋町にあった芝居小屋を浅草観音裏の猿若町に移し,府内25ヶ所の岡場所の壊滅を図った。
しかし叩かれても叩かれても遊里は不死身であった。
おそらく江戸に単身赴任の男性が多くいたためである。
参勤交代で江戸詰に来た若侍や江戸店[えどだな]と称する上方商店の江戸支店に奉公にやってきていた店員などの精力のはけ口として手ごろな遊び場は不可欠だったと考えられる。
岡場所・隠れ里は音羽とか根津とか深川にあった。
いずれも門前町で,四季の物見や参詣に人々が集中する土地柄であった。
根津の通りを挟んで惣門内の盛んだった事は,「花散る里」に
「根津権現様・惣門前,左右前後建ち並ぶことひつひつなり。
金ニ朱500文,寝屋間座敷にして客多く有る節割床になし,ずいぶんよろしく何事によらず女風俗も格別によろしく,茶屋杯より送りたくもあり,芸者女男共金ニ朱」。
とあるほどであった。
ちなみに25ヶ所をあげれば,
三田新地,
麻布薮下,
麻布兵衛町,
赤坂田町,
鮫ヶ橋,
市ヶ谷,
音羽,
谷中,
根津,
堂前,
本町入江町,
一ッ目駅弁天,
松井町,
おたび,
常盤町,
新石場,
古石場,
網打場,
あはる,
大新地,
小新地,
表櫓下,
横櫓下,
据継,
仲町
である。
天保期の根津遊郭の見取り図で見ると,惣門側の東側に24軒,西側に12軒,宮川町の方,大下水の南側に6軒のほか,北の千駄木と南の宮永町にそれぞれ見切世と出ている。
当時の揚代は高いところで1分。
普通「46」と言って夜は400文,昼は600文の玉代であったが,遊ぶには酒とつまみ代や祝儀もかかるので「46」では済まなかった。
根津の客は谷中・駒込あたりの僧侶や役人もいただろうが,湯島・下谷あたりの職人も多く,ことに大工の多かったのが特色だった。
根津の客雨の降る日は群れてくる
根津の客家の歪みに口が渇き
さしがぬを預けて揚がる根津の客
附合ひで左官も混じる大一座
惣門を打ちたいと言う根津の客
先の天保12年の大改革で紅灯の消えかかっていた根津も,嘉永年間になると,阿部伊勢守正弘が老中の時,一軒1人限りの娼婦ならばおいても良いと言うことになって,惣門内に再び活気が蘇った。
こうして江戸が終わるまで,この不死身の隠れ里は生き延びたのであった。
ー東京路上細見,林順信,初版1987年

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1979