[東京京橋] 京橋日活館




トーキー(無声映画)時代の映画館。

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明治40年(1908年)頃になると、活動写真館の常設館が各地にできた。
神田の錦輝館を皮切りに、浅草六区の三友館、大阪・千日前の当栄座などが完成し興行をはじめた。
作品も、増加する需要に応えてすでに様々なフィルムができていた。
客のほうも、動く写真の脅威に慣れてきて、短い作品では満足しなくなり、
そういった風潮のなかで、長尺物のストーリーがある作品を制作する動きが強まった。
明治41年(1909年)には当時の人気狂言「己が罪(菊池幽芳作)の活動写真が製作され、
浅草六区の三友館で弁士の声色つきで公開された。
また同じく当時の人気演劇「碁盤忠信」の活動写真が製作され、国技館で公開された。
当時最大の劇場であった歌舞伎座の収容人数が3000余人であったのに対し、国技館のそれは16000余人、
興行側の野心が感じ取れる。
-中公文庫 石版東京図会

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活動写真は明治30年(1898年)ごろにはすでに輸入され、明治30年(1898年)2月には歌舞伎座に朝野の名士を招待して
「バイタスコープ」の披露を行ない、次いで神田の錦輝館で一般公開をしている。
当時の映画・活動写真は、外国の風景や、外国婦人のダンスだとかいう、ごく短い実写フィルムが、
ただ人間がうごき汽車が走って見えるという事だけでものすごい反響をよび、
浅草で人気があった宮戸座の桟敷席が60銭という時代に、
錦輝館の活動写真劇は特別席1円、一等席50銭、二等席30銭、三等席20銭という高額な入場料にもかかわらず、
昼夜二回の興行を数日間延べにするほどの大当たりとなった。
-中公文庫 石版東京図会

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1930
絵看板職人・津村英雄と幻灯機
大阪の絵看板職人・津村英雄は,絵看板製作が変わっていく転換点に立っていた。
津村の時代,つまり大正後期から昭和初期は絵看板の需要が増えた時代であって,津村たちもそれに対応せざるを得なかった。
そこで新しい工夫が生まれて絵看板も変わっていたのであった。
大正時代半ばに独立した津村は大阪千日前の絵看板などを手がけていた。
看板を制作していた職人たちは文字看板を書く一般のペンキ職人とは異なる絵画の専門家で,「絵師」や「画工」などと呼ばれていた(明治大正大阪市史第3巻,1934年)。
当時大衆娯楽の中では活動写真の勢いが盛んになって,昔昭和初期にサイレントからトーキーへの移行が実現すると,活動写真は娯楽の王座に着いた。
活動写真館が増えて,その外観を飾る絵看板の需要も高まって行ってきた。
津村には弟子が18人もいたが,殺到する注文を捌けないこともしばしばだったようである。
そこで津村に与えられた課題はどのようにして迅速な製作システムを確立して大量生産を可能にするかと言うことであった。
その課題を解決する方法は「幻灯機」を用いた作画方法であった。
幻灯機はスライドのような機能を持った装置で,写真や絵を投影することができる。
津村が用いた幻灯機は前面にレンズがついた小箱で,天板がガラス面になっているものである。映したい写真をガラス面に載せれば中に仕込まれたランプと鏡によって像が屈折して,全面のレンズで拡大されてスクリーンに大きく投影される。
スライドのようにポジフィルムを使う必要はなくて,絵看板制作の場合は映画のスチール写真やポスターをそのまま使えばよい。
これを板に貼られた用紙に投影して,墨や鉛筆で人物の輪郭をとれば下書きは格段に速くなるし,顔が歪んで描かれる事もなくなる。
この幻灯機は津村自身が作り出したのだという。
河野さんもそう語っていたし,弟子筋にあたる三好慶男・宮崎一英も戦後のことであるが,津村が
簡単な箱にレンズを取り付けて原動機を自作している姿を見たと語っている。
津村はレンズにも強いこだわりを持っていて,ツァイス社製のレンズをいくつも持っていたり,東京へレンズの特注を依頼していたらしい。
おそらく戦前も試行錯誤を重ねながら仕事に適した装置を作っていたのだろう。
もちろん当時の装置はボーッとした像しか映すことができずに,目鼻の位置がつけられる程度であったが,それでも白紙に下書きするのに比べると格段の進歩であった。
この相違によって製作のスピードアップを実現したが, 下絵の正確さは同時に巧みな似顔絵を産むことになった。
高野さんによると,戦中から戦後にかけて津村の絵は顔が似ていると評判をとっていたらしい。絵看板の世界では現在に至るまで幻灯機を使った製作法が受け継がれている。
−「看板の世界–都市を彩る広告の歴史」,船越幹央,大功社,

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春が、春が、春が来る
どこかに恋がないものか
さてもオウバの汚れめよ
靴には泥が、をととひの
はねが今でもついている
なにしろ冬が逝ったのさ
あの化粧品屋の売りっ子め
たうたう女優になりやがった
しかも活動の
大雪の夜に壕端を
一緒にタクシイで走ったのを
忘れたいのにまた覚えてゐるが
くそ、せいぜい俗衆のまえで
下手なキスでもしたまえ
そんな愚痴はどうでもよしだ
このステッキは少々厭きたね
春は細身のケエンにかぎる
やはらかな色のボルサリノ
英吉利型のオリイブの春の上衣の井出で
ケエン振り振り街を歩いたら
さぞや好かろう
恋もあろ
-銀座青年のうた,沙良峯夫,1925

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春のさきがけ
作品店の飾窓
一年前の仏蘭西の巴里で流行したる品は
大抵ございます
げに誘惑の花園で
小娘みたいにわくわくすることもある
十軒よってネクタイ一本
明日は靴下
明後日は・・・
ふところ穿鑿すべからず
なにしろ春が、春がくる
新しい流行歌はまだ出ないが
なに、もうじきだとも
-銀座青年のうた,沙良峯夫,1925

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銀座の菊 (1916)
都に灯ともり
おとろへはてて われあゆむ
金の粉 ゆき途にふり
金魚のめざめこそばゆく
しみじみと銀座の街に鳴き出ずる
あはれ くつわ虫鳴くものを
また空には光る松蟲
おほいなる紙製の花もひらくころほいに
ニッケルの雲雀かがやく銀座3丁目4丁目
なやましげなる宵にしあれば
こよひ一夜を勧工場(ばさあ)の窓に泣きぬれて
あしたの菊をぞわれ摘まむ
あしたの菊をぞわれ摘まむ
-萩原朔太郎詩集,新潮社,1950年刊,

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珈琲店酔月 (1922)
坂をのぼらんとして 渇きに堪えず
朦朧として酔月の扉を開けば
狼籍たる店内より
敗れししレコードは鳴り響き
場末の煤ぼけたる電気の影に
貧して酒瓶の列を立てたり
ああ、この暗愁も久しいかな!
我まさに年老いて家郷なく
妻子離散して孤独なり
いかんぞまた漂白の悔を知らむ
女等群がりて草を囲み
我の酔態をみて哀れみしが
たちまち罵りて財布を奪ひ
残りなく銭を変へて盗み去れり
-萩原朔太郎詩集,新潮社,1950年刊,

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「月に吠える」が大正4年~6年にいたる時期で終わった後をうけて、
大正6年~11年にいたる時期に生まれたものが詩集「青猫」だ。
「青猫」の刊行は昭和2年であったが、このころから氏の詩作はかなり疎になり、
詩集はその後の最後の「氷島」を昭和9年に刊行している。
朔太郎の酒と盛り場の歓楽は、
「月に吠える」以前の時代には、白秋-西條八十的銀座情緒を多分にまじえた
この詩「銀座の菊」に代表される。
しかし彼にとって盛り場とは、
実は「夜の酒場」に開いたひとつの暗い穴の凄惨に他ならず、
「氷島」の時期に至れば、「珈琲店酔月」の現実に汚れ去るのだ。
-萩原朔太郎詩集,新潮社,1950年刊,

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屋根裏の散歩物者
乱歩の「屋根裏の散歩者」を読んだから屋根裏に惹かれたのか、
それとも息をつめて屋根裏を見上げていた頃にあの小説に出会ったのか、
その辺の事は、半世紀も経って忘れたが、
あの甘い動悸だけはおぼえている。
。。。
乱歩は震災後の街に次々現れはじめた小ホテルやアパートが好きだった。
それらの共同住宅は、みな屋根裏でつながっていたからである。
失踪癖のあった乱歩が、家人にも雑誌の編集者にも行方を知らせず、
こっそり潜んでいたのは、たいていそういうホテルの一室か、
知り合いの木造アパートだった。
そこで乱歩は、ひねもす膝をかかえて暗い目で天井を見上げていたにちがいない。
あの奥には何があるかわからない。
でも何かがあるに違いない。。
その時乱歩は、頭の毛の薄くなった5歳の児童であった。
―黄昏かげろう座,久世光彦 1998年刊,

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1929
君恋し
作詞:時雨音羽、作曲:佐々紅華、唄:二村定一
   宵闇せまれば 悩みは涯なし
   ・・・
   誰がためささえん つかれし心よ
   君恋し ともしびうすれて
   臙脂(えんじ)の紅帯 ゆるむもさびしや
昭和4年(1929)3月公開の映画『君恋し』の主題歌。
松竹キネマ、マキノ・プロダクション、河合映画製作社、日活の競作でした。
同年に同じ題名(原題は`The Man I Love`)のアメリカ映画が公開されていますが、この歌とは関係ありません。
作詞者の時雨音羽(本名は池野音吉)は大蔵省に勤めていたとき、日本ビクターの社長に依頼され、この歌を作詞したそうです。
当時の日本ビクターはアメリカ資本で、洋楽しか扱っていませんでしたが、この歌の成功で自信がついて歌謡曲の制作に踏み切ったといいます。
時雨音羽も大蔵省を辞めて、専業の作詞家に転身しました。
曲は、当時流行り始めたジャズ調を取り入れたのが特徴ですが、日本的な哀調を残したのが日本人の心情にアッピールしたようで、大ヒットとなりました。
ポストルードの前半に『埴生の宿』の一節が使われています。
歌ったのは浅草オペラの花形シンガー、二村定一(ふたむら・ていいち)でした。
戦後フランク永井の唄でリヴァイヴァル・ヒットしました。 

雑学の世界
http://www.geocities.jp/widetown/japan_den/japan_den016sub.htm







1968