大正6年複架線時代の山手線電車 鶯谷駅 宮松金次郎
運転速度の変遷
創業初期の電車速度は、御茶ノ水-中野間12kmを28分で運転していたので、表定時速は25.7km/hに相当した。
山手線は電化当時呉服橋ー上野間31.2kmを69分で走り、表定時速27.1km/hを示し、京浜線は東京-高島町間29.1kmを49分で走破したため、
表定時速は35.8km/hという画期的なものであった。
単に早いというだけのものならば、明治38年12月頃に東海道線急行蒸気列車が新橋-横浜間を37分間で運転していたから、これは京浜電車の方が負けである。
震災後になって山手線か客貨線分離を完成した際に、表定速度はかなり躍進し33.1km/hとなったが、
中央線は容易に分離されず、中野-御茶ノ水間の表定速度は27.8km/h、したがって時間的には同区間を2分間しか短縮し得なかった。
京浜線は震災後、大馬力電動車のみをもって運転し、
しかも架線電圧を1,200ボルトから1,500ボルトにあげているので、定格性能もあがって、東京-横浜間を42分10秒で結び時速41.5km/hとなった。
国鉄電車発達史(運輸と運転)