[東京神田] 三省堂

1881







1930s-1960s






2000s




1987
三省堂
すずらん通りは昔は九段への幹線だった「表神保町」の通りだった。靖国通りはむしろ「裏神保町」と呼ばれていた通りで,後に拡張されて幹線となった。
駿河台下,明大前通りと靖国通りとすずらん通りの交差点交差点に面する三省堂のビル。
三省堂の横の船先の感じになっている場所には洋品店の「モントーク」がある。
この場所は,かつての煉瓦造りの勧工場・東明館の跡地。
三省堂のビルは創業100年を迎えた昭和56年4月に改築して立派になったが,元々は木造三階建てのなだらかな三角屋根を持つ本屋であった。
新撰東京名所図会-神田区之部,明治33年
東京路上細見一,林順信著,1987

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長年育まれてきた伝統と実績がお客様の信頼の証しです
コンセプト
古書店での創業から新刊書店へ、そして昭和に入ってからは学生が必要なものは全てそろう
「学生のデパート」
へと発展し、その後も各地に支店展開をはかる中、神保町本店は国内有数の総合書店として多くのお客様に知られてきました。
知的情報の集積地・神田神保町で育まれてきた伝統と実績は、時代に合わせて変化するお客様の要求にお応えしてきた証しといえます。
三省堂書店神保町本店は、これからもお客様の信頼にお応えできるよう日々研鑽と挑戦を続けてまいります。
明治14年、創業当時の三省堂書店
明治14年、創業当時の三省堂書店。
界隈の書店は、神保町通り(現・すずらん通り)沿いに10軒ばかり。
駿河台下のほうにも数軒。
そのうち今でも業界に身を置くのは三省堂、有斐閣、東京堂、冨山房など。当時は人力車に乗って東京見物をする人たちに、車夫が
「これが有名な三省堂、あちらが東京堂でございます」
と説明したとのこと。
書籍のほか、文具から用品雑貨まで
当時は周辺に多くの大学が創立される一方で、印刷技術が未発達なため、新刊どころか古書も非常に貴重で高価な時代でした。
そこで三省堂は書店だけでなく自ら多くの辞書を出版し、
「辞書の三省堂」
の礎を築きました。
その後、大正4年には出版・印刷部門が分離し株式会社三省堂を設立。
一方の三省堂書店は着実にお客様のニーズに応え、新刊書店として成長を続けました。
本社屋を改築
昭和に入ると「学生のデパート」として、
標本、模型、楽器、レコード、学生服、洋品雑貨、眼鏡、運道具、化粧品、薬、煙草
などあらゆる商品を扱い、また自社ブランドの文房具の開発や食堂部の経営など、百貨店さながらの多角的展開をおこなっていました。
時代が戦後に移ると、活字への飢えや景気回復に後押しされ出版業界は活況を呈し、また高度成長期に急増した読書人口を背景に売上は急成長し、情報産業として書店の地位を確立したのです。
神保町本店
昭和56年、半世紀の歴史を持つ旧社屋を改築し、創業100周年事業として新神田本店(現・神保町本店)を開店。以降、大型総合書店として知識を求める多くのお客に最新の情報を発信してきました。
近年ではアウトレット書籍や電子書籍の販売、そして雑貨ショップ
「神保町いちのいち」
の併設など、常にお客様の幅広い要求にお応えし歩み続けます。

三省堂書店
http://jinbocho.books-sanseido.co.jp/concept




1967
御茶ノ水駅から駿河台下までの通りと,駿河台下から下にかけての都電通り(靖国通り)は商店街である。
特に都電通りの南側に多く,古本屋は存続的に続いている。
ここは世界的にも有名な古書店の集中地区であって,ここに内外各種の古本が取り扱われていて,通り全体が古本デパートの観がある。
神保町を中心とした新古商店の数は約160で,中には明治時代からの店がある。
店内はそれぞれ部門別に整理されているが,店によっては取り扱う部門に特色を持っている。
これらの古書店では,店頭で売るだけでなく全国に通信販売している店もあって,古書会館があって毎日古書の市が立って,古書の全国的な集散が行われているという。
新刊書取扱店は断続して古本店の中にあるが,神田地区全部で110件あって,その中には
三省堂,
東京堂
などのように広い売場を持っているものもある。
出版社を探すと,
駿河台の主婦の友,
錦町の誠文堂新光社,
神保町の三省堂,富山房,東京堂,
一橋の岩波書店,小学館
など皆この界隈にあって,小さい業者まで数えるとキリがない。
こうした出版社,商店の多いのは神田が学校の街である事に由来している。
駿河台の各学校のほかに,
神保町の専修大学,
三崎町の日本大学,東京歯科大学,
一橋の共立女子大学
があって,その他予備校や各種を数えると実に膨大な数の学校がこの一帯にあるわけである。
都電通りの裏通りのすずらん通りなどはきれいな歩道もできて感じが良くなった。
その他の通りも皆真学生の街であって,書店の外は学生服,運動靴,文房具,カメラの店があって,裏通りに僅かな喫茶店が並んでいる。
しかし昭和のはじめ,神田小唄に
「肩で風切る学生さんに,ジャズが音頭とる神田,神田,神田」
と謳われたころの景気はないという。
それは昔の学生は裕福でのんびりしていて,学費や生活費を稼ぐことがなかったこと,大学の規模が拡張したことや大手町方面からのビルラッシュで地価が上がって下宿屋営業が成り立たなくなったからだと言う。
大半の学生は下宿代の安い郊外から通い,夜はアルバイトの方が忙しいので,夜の街を下駄を引きずりながら飲み歩くことがないらしい。
ー東京風土記/城西・城南編,サンケイ新聞社編,現代教養文庫,1967年

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1987
すずらん通り
駿河台下,明大前通りと靖国通りとすずらん通りの交差点交差点に面する三省堂のビル。
三省堂の横の船先の感じになっている場所には洋品店の「モントーク」がある。
この場所は,かつての煉瓦造りの勧工場・東明館の跡地。
三省堂のビルは創業100年を迎えた昭和56年4月に改築して立派になったが,元々は木造三階建てのなだらかな三角屋根を持つ本屋であった。
すずらん通りは昔は九段への幹線だった「表神保町」の通りだった。
靖国通りはむしろ「裏神保町」と呼ばれていた通りで,後に拡張されて幹線となった。
すずらん通りを約250m歩くと,白山通りが横切って,その先には桜通りが約230m続く。空に後楽通りを渡って200mほど行くと日本橋川の川岸に出る。
この一直線の通りは江戸時代からの古い通りである。
江戸時代の地図には「表神保小路」と記されている。
名付親の神保伯守[じんぼうほうきのかみ]という500石の旗本の屋敷がさくら通り入口の辺り(岩波シアター辺り)に面していた。
すずらん通りを含む現在の一丁目は,靖国通りを挟んで
北側が偶数,
南が奇数
の番地となっている
住所変更表示変更に伴う番地決定の際に,靖国通りの両側の住民がお互いに番地が後になるのを嫌がったために,このような変則的な番地になったそうだ。だから番地を目当てに探そうとすると困ったことになる。
靖国通りの南側に当たるすずらん通りの両側には,飛び飛びに奇数の番地が続いている。
すずらん通りに面する商店は明治から新たに開けた一橋や駿河台のアカデミックな街の成り立ちを反映して,書店,出版社,文房具店が並ぶ。
そろばん屋や紙屋の老舗もある。
関東大震災前まではすずらん通りは盛り場であって,通りを南に一歩入ったところには戦前まで寄席の「花月」があった。
現在,立体駐車場になっている場所には当時では珍しい洋食の「須田町食堂」があって,花月で講談を聞いて,須田町食堂でとんかつを食べるのは流行りだったのである。
すずらん通りの中ほどに「東京堂書店」と向かい合って目下建築中の「冨山房」がある。
冨山房の西隣,東洋風な手すりのあるビルは現在「東洋時計商会」となっているが,戦前は「中華第一楼」のあった所である。
その先のその先の角にある「宮田紙商会」の店舗は,店主自らの設計による傑作であったが,先年白タイルの新ビルとなった。
繊細で焼ける前までは立派なステンドグラスの窓はあったが今も保存してあるという話である。
すずらん通りの外れから2件目大きなそろばんの形をした立体看板を掲げているのは「さつまや」である。
創業70年以上の天下一ソロバン販売店である1000円の学童用そろばんから4万円の名人作そろばんまで1800種類もそろばんを取り揃えている店内は天井が高く神社の祠をかたどったケースの中に,そろばんが所狭しと並んでいる。
そろばんは亀の子たわしなどで手入れすると具合が良いとされる。
「三慶商店」は元々は楽器屋であったが今は美術道具商である。
その北側にある「高岡商会」は鉱物・生物見本・標本を売っている
一度天然記念物の標本を売ったために検挙されたことがあった。
ただし高岡紹介に責任はなかったので無罪となった。
ラーメン屋「礼華楼」は
ラーメン一杯280円,
カレー350円,
中華丼380
ととにかく量が多くて安い。
すずらん通りには面してはいないが,書泉グランデ裏の「ラドリオ」という店は作家や編集者のたまり場として有名。
ラドリオと同じ経営者のタンゴ喫茶「ミロンガ」も神保町にあるが,こちらは五木寛之の「夜明けのタンゴ」の舞台となった店である。経営者の島崎愛子さんは私の幼友達だ。
またすずらん通りの喫茶店「青銅」や靖国通りの北側にあるバー「忍」も北方謙三をはじめとする作家たちがよく利用する店だ。
しかし,今改めて見直してみると戦前のままの建物は数えるほどしか残っていないことに気がつく。
日頃から古雅な外観が気に入っていた「文房堂」の店内を覗く。
1階は画材と文房具,
2階は版画・彫刻の制作用具,
3階は額専門
となっている。
2階の画材や文房具が並ぶ中に,リトグラフ用のプレス機が2・3台置いてあった。一つは昔風の重厚な鉄製のプレス機で,私が全力を出しても微動だにしない。
この文房堂の建物は関東大震災前の大正10年(1921年)に建てられた。天井が高くて床がしりしていて,これほど重い機械が何台あってもビクともしない。
文房堂を出る。左に折れて,すずらん通りから文房堂脇の細道をゆく。文房堂の3階建ての土蔵が左に見えている。
すずらん通りから左に入ったこの辺り一帯は昔「神田村」と呼ばれていたところだ。
図書取次店がひしめきあっていて,店先には雑誌や新刊書が色とりどりの表紙を見せて平積みされていた。顧客の探している本や追加注文の雑誌を仕入れる書店員たちがそこかしこを自転車で走り回っては,仕入れた本を荷台に積んでいた。
新撰東京名所図会-神田区之部,明治33年
東京路上細見一,林順信著,1987

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