[車両] トヨタ2000GT





[車両] トヨタ2000GT
【今日は何の日?】トヨタ2000GT発売 「世界中を驚かせたジャパニーズスーパーカー」52年前 1967年5月16日
2019-05-16
Webモーターマガジン編集部
今日は何の日?1967年5月16日トヨタ2000GTCAR
自動車の歴史を振り返る企画「今日は何の日?」。52年前の今日、5月16日は、トヨタ2000GTが登場した日。あれから半世紀。それでは52年前にタイムスリップ。
トヨタ2000GTってどんなクルマ?
連続高速耐久スピードの世界記録樹立や映画「007は二度死ぬ」の登場で話題を呼んだのが「トヨタ2000GT」だ。
技術の総合力の成果を世界に問うべく、スタイリングからすべての部品にいたるまで、完全純国産技術で開発された。1970年に生産が終了するまで337台を生産した。
1965年にトヨタとヤマハの間で、スポーツカー開発に関する技術提携が交わされ、主にトヨタでは基本設計、ヤマハはトヨタの指導の下、おもにエンジン高性能化や車体/シャシの細部設計を担当した。トヨタ2000GTはトヨタとヤマハの共同開発モデルとなる。
1965年に晴海で開催された第12回東京モーターショーでプロトタイプを発表、1967年の5月16日に発表/発売されている。
市販車の発売に先立ち、1966年10月1日から3昼夜をかけて、谷田部のテストコースにて2000GTでの超高速耐久トライアルが行われ、
「72時間平均時速206.02km/h」、
「1万5000km平均時速206.04km/h」
など3つの世界新記録と、13の国際新記録を樹立、高性能ぶりをアピールした。
これらは日本で初のFIA公認記録となっている。
直6DOHC 2000ccエンジンやダブルウイッシュボーン/コイルの4輪独立懸架、4輪ディスクブレーキ、4輪マグネシウム合金製ホイールなど、日本の量販車として初採用だった。
トヨタ2000GTの車両価格(東京)
238万円
トヨタ2000GTの主要諸元
全長×全幅×全高=4175×1600×1160mm
ホイールベース=2330mm
車両重量=1120kg
エンジン=直6DOHC
最高出力=150ps/6600rpm
最大トルク=18.0kgm/5000rpm
最高速度=220km/h
最高巡航速度=205km/h
0→400m加速=15.9秒
0→100km/h加速=8.6秒
1967年になにがあった?
●東京キー局、カラーテレビ放送開始
●ツイッギー来日でミニスカートブーム到来
●リカちゃん発売。チョコフレーク発売
ヒット曲
●ブルー・シャトー ジャッキー吉川とブルー・コメッツ
●夜霧よ今夜もありがとう 石原裕次郎
●この広い野原いっぱい 森山良子
●真っ赤な太陽 美空ひばり
●銀色の道 ザ・ピーナッツ

Webモーターマガジン編集部
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[車両] トヨタ, 2000GT
トヨタ2000GTといえば、1967年に発売されたトヨタを代表するスポーツカーで、発売前から大きな話題をさらい、未だに語り継がれる名車中の名車だ。 しかし、その名車を作った開発者の苦労は並大抵ではなかった。なぜならプロジェクトリーダーの河野二郎氏が設定した高い目標があったからだ。 実際に細部設計と製作を担当したヤマハは、トヨタからの厳しい注文に応え、短期間でトヨタ2000GTの開発作業を行った。 トヨタ2000GTは市販の前にレースやスピードトライアルを優先させるという希有な方法をとったので、レーシングカーを担当したヤマハのエンジニアは血のにじむような苦労を経験したのだ。 今回、ヤマハの関係者を含めたトヨタ2000GT開発者による座談会が実現。今まで出たことのない開発秘話が続々飛び出した。 ──トヨタ2000GTはプロジェクトリーダーの河野二郎さんが基本コンセプトを作っています。  それは 1:世界トップレベルの動力性能と高いクオリティーを備えた本格的スーパースポーツ 2:マシンではなく日常的なハイパフォーマンスカー 3:国内市場のみならず、海外市場の要件をも十分満たしたスポーツカー 4:量産車ではなく、贅を尽くしたハイクオリティーカー 5:GTレースに参戦しても十分に通用する高いポテンシャル、というものでした。  そのためにデザイン担当の野崎 喩さん、エンジン担当の高木英匡(以下高木)さん、シャシーと駆動系担当の山崎進一さん、テストドライバーの細谷四方洋(以下細谷)さんらの精鋭が集められました。  今回はトヨタとヤマハのトヨタ2000GTの開発者に集まっていただきました。トヨタとヤマハのスタッフが同席し同時にお話しいただくのは大変珍しいことだと思います。 細谷さんはレーシングドライバーですがトヨタ2000GTの開発者としての側面もありますので、両方の立場からのお話をお伺いしたいと思います。 ──まず、ヤマハの田中俊二さん(以下田中)から簡単な生い立ちとトヨタ2000GTのエンジンを担当するようになった経緯をお話しください。 田中俊二氏 「私は東京大学の工学部機械工学科を卒業して日本楽器に入社しました。日本楽器から奨学金をもらっていたこともありましたが、総務の方が浜松から上京されて半ば強引に入社を約束させられました。 1960年には会社から、MIT(マサチューセッツ工科大学)へ2年間留学させてもらいまして、62年にヤマハへ復帰しました。 帰国後は日産の仕事をやっていましたが、V8エンジンの中心線を描いたところで、なぜか異動命令が出ました。 その後、役員事務局にいたときに、「トヨタ2000GTのプロジェクトを手伝ってくれ」と当時のヤマハの川上源一社長から言われ、常務から「クルマを1gでも軽くしてくれたまえ」と命令されました。その部署は「自動車部研究課」と呼ばれました。」 ──高木さんはどんな経緯でトヨタ2000GTに関係するようになったのですか。 高木英匡氏  「私は東京工業大学理工学部機械工学科を卒業し、トヨタへ入社しました。技術部エンジン課に配属され、最初はいくつかのエンジンの実験・研究の仕事をしました。 ディーゼルエンジンのターボチャージャーなんかもやりました。第3エンジン課ができて、少しそこにいた後、第1エンジン課に移籍しました。 その後レースの仕事に移り、トヨタ2000GTのプロジェクトが発足したので、そこに参加しました。 トヨタ2000GTの開発のために会社にはロータス・エラン、ロータス・エリート、アバルト・ビアルベーロ、ジャガーEタイプ、ポルシェカレラなどがありました。それらを参考にしながら、トヨタ2000GTのDOHC化を頭の中で考えました。  最初のヤマハさんとの打ち合わせは64年11月頃だったと記憶しています。ヤマハの仲正男常務がトヨタを訪問したと思います。豊田章一郎常務も浜松へ行きました。 相互に担当者レベルで訪問を繰り返しました。プロジェクトのスタッフは日本楽器の中沢工場で打ち合わせをしました。ヤマハでは遠藤嘉徳課長や中村孜郎主任が実務の中心になって設計をしてくれました。 ヤマハは設計の狙いを理解してくれて「何の部品を使わせてもらえるのか」とか「どの部品を作り直さなければならないか」などの質問が出ました。」 ──細谷さんはどんな経緯でトヨタ入りしたのですか。 細谷四方洋氏 「ひょんなきっかけなんです。私は広島の尾道の生まれです。そこで高校時代バイクを乗り回していたんです。 友人の岡本節夫さんが第1回日本グランプリに出場する予定だったんですが、彼の父親が病気になり、急きょ出場を取りやめ、私がピンチヒッターを務めることになったんです。 ノーマル仕様のパブリカで出場し、ホワイトリボンタイヤでコンマ4秒差の3位に終わったんです。 それを見ていたチーム監督の河野さんから「トヨタに来ないか」と言われ、1964年1月1日付で嘱託契約しました。」 ──松田栄三(以下松田)さんがトヨタに入社された経緯を教えてください。 松田栄三氏 「私は兵庫県神戸市生まれです。戦後、父親が病死したので、叔父に当たる、後のトヨタ自販会長の加藤誠之さんを頼って愛知県挙母市(のちの豊田市)に移り住みました。 旧挙母中学(現県立西高校)を卒業後、トヨタに入社。技術部物理試験課に配属されたが、その後、製品企画室でレースを担当するようになりました。」 

Nosweb 編集部
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