[東京神田] 甲武線御茶ノ水驛付近(1910)想像図~dataparkスケッチ紀行

[東京神田] 甲武線御茶ノ水驛付近(1910)想像図~dataparkスケッチ紀行
不忍池の西側に広がる本郷湯島台地は、春日通りの切り通しと神田川によって分断されていますが、かつては連続した台地であったと考えられます。このうち神田川は徳川時代の初期に、神田上水の建設に伴い掘削されました。それ以来、川を挟んで北側を湯島台地、南側を駿河台と呼ぶようになったようです。
駿河台には旗本の屋敷が多く立地しましたが、彼らは徳川譜代の家臣として駿河の出身でしたので、この地を駿河台と呼ぶようになったとされています。明治以降には、私学が多く立地し、さながら日本のカルチェラタンのような様相を呈するようになります。
湯島台地には、古くからあった湯島天神のほか、神田明神もこの地に移転してきて、東側に広がる低地を俯瞰してきました。また大きな寺社の例に漏れず、明神下や天神下には色町が形成されたものです。湯島にはまた、孔子廟が立地し、ここを拠点に徳川時代の学問の中心地ともなりました。徳川政権は学問の振興にはあまり熱心ではなかったのですが、それでも儒学は大事にされ、武家の教育の柱としました。孔子廟は湯島の聖堂とも称され、武士を対象とした儒学教育に大きな役目を果たしてきたのです。こんな歴史的な経緯もあって、今日お茶の水から湯島本郷にかけての一帯は、学芸的な色彩の強い町となったのです。

Tokyo Town Scapes 
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