[中国][武漢] さだまさし: 長江夢紀行~思い出の武漢の街を歩く(1983)











さだまさし: 長江夢紀行~思い出の武漢の街を歩く(1983)
~僕の中国の旅は武漢から始まったのです。
ここから始めるしか僕にとって中国の旅はありえなかったんだし,僕にこの旅を決意させた大きな要素のうちの一つがこの武漢という街であったのです。。
どうしてこの街に惹かれたのか?それを語ることが僕の精神史の一ページを開くことにもなるのでしょう。。僕はこの武漢の街を舞台にして歌を2曲作っています。「フレディもしくは三教街」と「
椎の実のママへ」という歌です。
この武漢という街は,僕にとって単に中国の大きな都会のうちの一つというだけの印象ではなくて,何かしらそれ以上の自分を掻き立てるもののある街なのです 。~
■武漢の記憶
暗い色ばかりで塗りつぶされている町でありませんでした。母の漢口には何か青春のキラキラと輝く好奇心と躍動感がいつでもちりばめられていたのです。。三教街というのはその中でも一番きらめいていました。。
三教街というのは武漢の街の中の旧ロシア租界のことです。「租界」の説明をしなければいけません。「租界」とは法律によって認められた,はっきり言えば都会の中の植民地的区域とでも呼べる場所を指します。そしてその区域は治外法権が認められていたのです。よその国の中に自分の国が土地を作ってしまう。。これが当時の中国の中で随分行われて いたわけで。 中国の人に対してはとても申し訳ないことだと僕は思うのだけれど,とにかくそのようなことが法律的に認められて,この町に存在していた時代があったということは驚くべきことであります。やはり帝国主義の時代であったということなのでしょう。
武漢にはいくつかの租界がありました。先ほど書いてあるロシア租界・イギリス租界・フランス租界・ドイツ疎開・それに日本租界もあったのです。。その中のロシア租界。ここは帝政ロシア本国が革命によって倒されたために当然のことながら法律上ロシア紹介としての権利を失うことになりました。
しかしその街自体が消えた場合 ではなく,街として存在し続けていたし,やがてその街にはロシア人に代わってユダヤ人が多く住み着くようになりました。ユダヤ人租界,あるいは旧ロシア人租界。そんな呼び方をされた三教街のことを母は克明に記憶していて僕に語ってくれたんです。
例えば「ヘーゼルウッド」という洋菓子屋さん。「ボンコ」というレンガ焼きのパン屋さんなど。。そこにいた青い目のちょっと足の悪い「ヘイゼルウッド」のオーナーのおじいさん。それからやや小太りの人の良さそうなおばあちゃんの笑顔。。言葉は通じなかったんだろうけど青春時代の僕の母の目にはそういった人たちの生き様や生活風景がものすごく深く刻み込まれていたみたいなんです。そんな母からそんなことを聞かされて育っていた僕は,いつのまにか僕なりのイメージでそのまま街を自分の頭の中に勝手に作りあげあげていました。。見たこともない三教街を歌にまでしてしまったのです。あはははは。。~
母はこの街で3年間タイピストとして暮らしました。現実に三教街でお茶飲んだり,その先のフランス租界で洋服を買いに行ったり。。それから毎日タイピストとして職場へ出かけたりして青春時代を過ごしたのです。そしてその1日1日は戦争の中の 日々でもあったんです。
「毎日3時になるとコンソリーデーテッドという爆撃機が飛んできて上手に日本租界だけに爆弾落として帰って行くのよ。。だから3時のおやつのことをコンソリデーテッドと呼んでいた」
そんなことを母は話してもいました。何とも楽しい思い出話のように。どうも信じられないんでしたが。。戦いというものは常に悲惨なものであると。戦争を知らない僕でさえそう思います。事実悲惨でない戦争なんてありえるはずがない。にもかかわらず母の思い出の中の矛盾。戦時下のきらめく思い出。これは一体どういうことなのだろう?僕はそれをずっと考え続けてきたんです。
それは半分は母のイメージのウソなのだろうな。。僕は今はそう判断しています。とても悲惨な戦争の中で若かった彼女はその戦争に自分の青春を塗りつぶされまいと抵抗して,せめてもの息抜きであった三教街の様々な,とても小さな楽しみの中に見出そうと努力していた。。それが今思い出の中で膨らんでいるのだと。。
■武漢へ
母の話の舞台は三教街ばかりではなく,ドイツ領事館(僕は「椎の実のママ」の中で大使館と書いたけれどもそれは間違いです)の池でボート遊びをしたり,江漢館という時計台の鐘の音で時を知った美少女たちの生活は当時の日本の内地の暮らしとはまるで違った異国情緒あふれるものだったらしい。そんなことを聞かされるたびにどうしても戦争と触れ合わない中国の都市,不思議な町・漢口。。そんなイメージが僕の中で勝手に広まっていったのです。。
僕が初めて武漢を訪れたのは昨年の秋のことでした。その時僕は母と妹を連れて行きました。母にとっては戦争が終わって天津から日本に引き上げて以来の初めての中国の土でした。僕はどうしても母にこの街を見せたかった。僕を強く引きつける一つのきっかけとなった母の青春を僕も母と一緒に探してみたいとも思っていたのです。
飛行機が武漢に近づくにつれて僕の胸は早鐘を打ち始め,まるでステージの幕が開く直前のような興奮状態に陥りました。武漢の町が飛行機の窓から見えた時,僕はまるで言葉を発することができんできませんでした。もうすぐ着くんだ。子供の頃から 見ていた頭の中で勝手に描いていた街がなぜか本当に存在したんだ。。頭の中では色んな言葉が飛び交いました。言いようのない興奮。。それは実際今でも何と言っていいのかわからない興奮でした。
降りてロビーに入ると中国側の撮影スタッフが我々の出迎えに来てくれていました。映画制作の調印のために日本に来てくれた中国のスタッフの顔を見えて,ここは中国のしかも武漢なんだという確信はもちろん持てたんだけれども,興奮冷めやらず何やろふわふわと雲の上でも歩くような心持ちで迎えの車に乗り込んだのでした 。
母の涙はその頃にはどうやら治ったのですが,今度は逆に激しくはしゃぎ始めてしまったのです。
「これ!ほら漢口の匂い!」
興奮して深呼吸などして,どうにも僕にも深呼吸しろと迫るのですが,僕にはどうにも漢口の匂いというのがピンとこないでとても困ってしまった 。
どうしても三教街へ行ってみたいと母は言いました。それを聞いていた撮影スタッフが「中国の案内人を探してみましょう」と言いましたが,僕はその申し出を断りました。そうじゃない。行きたい三教街は案内してもらう街ではないはずだ。。
江漢館の所から揚子江沿いに散歩道いわゆるバンドという堤防沿いの道は未だに母の記憶通りの形を残していました。そして僕らはそこからイギリス領事館を左折する形で街の中に入っていく。 実はその先に三教街はあったのです。その時母はそこが三教街であるということをまるで気がつきませんでした。つまりそれほどに三教街は変貌していたのです。
2時間ほども街の中をさまよい歩き続けたでしょうか。。中国人のスタッフが何人か僕らについてきてくれていたのですがとうとう業を煮やしてしまったらしく,こういう言ったのです。「三教街はもうさっきから何度も通って来ているんですよ」「そんなバカな?」母はびっくりして通訳の方に大声をあげてしまいました 。そう。。ここは三教街じゃない。~
しかしこれは母の問題です。僕にとっては違います。僕にとって大事なことは,そこが紛れもなく三教街であるという事実と,40年間変わらない三教街の構造であったんです。それを確かめられれば僕はもう十分であったんです。
僕が自分の中で勝手に作り出してしまった教会。それが現実に存在していたということを知って僕は大いに驚きました。「ヘーゼルウッド」と「ボンコ」の位置関係。「ヘーゼルウッド」が三教街の入口付近の角地にあって昔はガラス張りで中にカフェテラスがあったということ。「ボンコ」はその斜め向かいの煉瓦造りの建物だったということ。 そして歌の中で僕がポプラと歌った木が実はプラタナスであったこと。そのことが分かるだけで僕は十分だったんです。~
ー長江夢紀行,さだまさし,集英社文庫,1983 

thhuiuujy pc