[東京田端] 田端徘徊〜田端台地をあるく












[東京田端] 田端徘徊〜田端台地をあるく
2020.9.2
10年ぶりに田端をあるく。
芥川龍之介が住んだかつての文士村。10年前にあった古書店が消えていた。かつての文士村に本屋が一軒もないのはどうも....
日暮里から田端に番地が変わる辺りから空が拡がる。高層マンションが少ないせいだ。
一昔前の下町のユルい幸福感が残っている。同じ空気を三河島の町でも感じた。谷中近辺にも昔はあった空気。しかし観光地化して大手チェーンがはいった今の谷中にはもはやこの空気はない。
目に視えない,香りがない幸福感。当たり前に吸って暮らしていたそれを,便利さと引き換えに捨てる。捨てたところで喪失感はない。吸っていた意識さえないのだから。そして捨てた遥か先に,変わらなかった街でその空気を吸い,捨てたものに初めて気付く。そういうもんだな......
とはいえこの界隈も先々どうなるか。知れたもんじゃない。
三河島。町家。そしてこの田端。谷中と同じ下町だが。そして谷中よりもずっと寂れている。しかし何かの遺香と温かさが残る地域。街を歩きながら毎回それを感じ考える。便利になって何を得て何を捨てているのか。来るたびに考えさせられる。そして毎回同じように,街を離れ,我にかえる。
思考で掴み得ない幸福感というもの。それを日々捨てている。それだけは認識しておこう。。

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東京インフラ042 上野台地の崖線
■太古の地球温暖化の名残り
台地と低地のせめぎあいがつくりだす優美な曲線。しなやかな鶴の首を想わせる。氷河期後の地球温暖化によって、氷が溶け出して海面が上昇し、押し寄せる波が長い時間をかけてこの崖を作り出した。
京浜東北線は、この崖下を上野駅から赤羽駅まですり抜け、山手線は田端駅あたりでこじ開けて、山の手に戻っていく。東京の活動を支える<血流>が、この地形を土台にして<人体>にいきわたる。
この崖は、東京の都市の性格を分断する境界でもあった。
「江戸の町は非常に計画的に造られている。大きく分けて現在の京浜東北線の東側は下町で、碁盤の目のように東西、南北の道が直交しており、主に町人の町だ。これに対して西側は山の手で、台地と谷の地形から成っており、尾根筋に東西の道その両側に大名屋敷そして谷にわずかに町人が住むという配置だ。」(タモリ)
「線路はかつての上野半島の裾野を回り込むようにして走り、その岬の突端に駅ができたわけである。(上野駅)東口にあたる下谷のあたりは、いつまでもじめじめした湿地帯の風情をただよわせていた。」(中沢新一)
昔、人々は線路を横断して、この崖を上り下りしていた。しかし交通の増加に伴い、線路をまたぐ橋が築かれた。そのひとつ、飛鳥山下跨線人道橋は、わが国で最初の公園の一つ・飛鳥山公園(1873年)を王子駅と結ぶ。かつての<血管組織>の一部である古レールを<移植>して、組み立てた、瀟洒なアーチ橋である(1925年)。(北河)
 この物件へいく引用
タモリ:タモリのTOKYO坂道美学入門、講談社、2004.
中沢新一:アースダイバー、講談社、2005.
種別崖線所在地東京都台東区・荒川区・北区規模延長約10km 高低差約20m

ドボ博 東京
http://www.dobohaku.com/tokyo/ja/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%95%E3%83%A9002-%E4%B8%8A%E9%87%8E%E5%8F%B0%E5%9C%B0%E3%81%AE%E5%B4%96%E7%B7%9A/

東京都都市整備局
https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/seisaku/midori_kakuho/pdf/guide_line01.pdf




 


東京に崖がある――そういわれてもにわかには信じられない方も多いはず。だが、よくよく調べてみると、東京には実に多くの崖があるのだ。
たとえば、東京を代表する「日暮里崖線」は、赤羽から上野にかけて巨大な崖が南北10kmにわたる。ほかにも崖の宝庫である麻布、西には「国分寺崖線」など枚挙にいとまがない。
この知られざる東京の崖が、ここに来て注目されている。東京の崖を紹介する書籍が話題になり、崖散策もブームになっているのだ。
『江戸の崖 東京の崖』の著者・芳賀ひらく氏によると、「流行りの散策だけでなく、東日本大震災以降、地質を意識する人が増えているのも遠因だと思います。東京23区内に崖ないし擁壁(急傾斜地)は2万2622か所もあります。そして大半は、建物、階段、坂などで巧みに“変装”しています」。
ちなみに、崖の定義は「高さ3m以上、傾斜30度以上」。この隠れた崖を見つけ出すのが“崖マニア”の楽しみのひとつだという。
明治期に来日した地質学者は「横浜あるいは東京に着するにあたり、まず眼に上るものは、いわゆる沿岸の峭壁」と論文で書き残しているほど、昔の東京は崖が目についたのだった。
撮影■藤岡雅樹
※週刊ポスト2012年10月12日号

週刊ポスト
https://www.news-postseven.com/archives/20121014_147095.html?DETAIL