[東京浅草] 東京徘徊記〜浅草










[東京浅草] 東京徘徊記〜浅草
浅草の街の独特の雰囲気は「レトロ」というよりも「浅草イズム」なのだと毎回思う。B級感溢れる「浅草イズム」。メインストリームとは関係なく我が道を行くGoMyWay感。あえて「古い」ままでいる世界が,結果として異世界的な独特の風情を作る。1980年代バブル期,「ダサい」というレッテルを貼られ,若者に避けられた閑散期はひとつの岐路だったんだろうが,こうして代わらぬ古い街である事を選んだのかと勝手に思っている。
・2020.10
浅草エリアを離れると急速に寂れる。
浅草の華やいだ空気のせいでそう感じるのかも。
かっぱ橋商店街にある食品サンプル専門店。卸問屋街は20時でもう真っ暗。
・2020.11
仲見世の家賃は実は月額3万円程度だったのが,1月から5〜10倍に上がったとどこかの記事にあった。。代々世襲制で,加えて安い賃料が,あのマッタリした空気の背景だったのかもしれないが。。
家賃が上がると状況も変わるのかもしれない。。
そう考えると不安になってきた。。
・2021.3.31     
桜は雨のため大分葉桜になっていた。。
洋食屋の草分け,有名な洋食屋ヨシカミ前を通る。
奥まった場所のためか初めて見た。
繁華な浅草もちょっと中心を外れると真っ暗。パン屋ボワ・ブローニュの看板が目立つ。
・2020.12   
神谷バーに電気ブランを買いにいくも火曜定休(涕泣)....土産物屋をまわり翌日再度訪問。目的の品を買う。今年の年末は電気ブランを贈る。。
B級感溢れる浅草イズムは相変わらず元気だ。
。。何とういうか,メインストリームとは関係なく我が道を行くGoMyWay感がスバラシイ。東京といっても浅草は独自の自治区的空気で他とは異質だ。新しいものを拒絶するんでもなく昭和的な感覚が堂々と街の骨格にある。人が元気。いいなぁと思う。B級グッズに目がないワシには危険エリア。ブリキ玩具の現行品は仲見世で買える。
鬼滅の刃グッズは異常に多い。
撮影:浅草仲見世,マルベル堂,ミュージックハウスヨシダ,
・2021.10
午後の早い時間に,いつもの秋葉原に向く足が,上野アメ横へ。その足で浅草へ。秋の陽光。仲見世に年始の御守を買いに向かう。都内どこでも移動の基本は徒歩で,浅草も行けない距離じゃないが,履歴をみると結局年末しか行っていない。浅草はいろいろ珍しくて予定外の出費ができてしまうというのもある。15時にかっぱ橋道具街を通る。ここは18時には早々と閉める問屋が多く,いつも深夜の真っ暗な街しか見ていないので新鮮だった。まさに追い求めている「昨日街」そのものの風景がこの道具街にはあった。昭和の風景がここまで残っている要因は専門店街であるからか。お金おろそうとコンビニ探すも,2街区歩かないとなかった。それだけ個人店だけで街がガッチリ埋まっている。街の人も昭和で,他の街よりも幸福そうに見えた。「浅草イズム」「幸福感」。町屋や十条で感じる幸福な笑顔をこの浅草でも見る。もちろんコロナやら経営やら色々あるんだろうが,それも含めて。下町の谷中にもかつてはこういう笑顔がもっとあった。コンビニもチェーンも便利だが,ここに来るたび,新しいものと引き換えに何かを捨て続けている自分を思う。
撮影:浅草かっぱ橋道具街,喫茶オンリー,ミュージックハウスヨシダ,
・2021.12   
神谷バーに電気ブランを買いにいくも火曜定休(涕泣)....去年と同じ事をしている。。気温13度の雨で寒く路上に人はまばら。土産物屋をまわり翌日再度訪問。オミクロン禍の足音がするも,居酒屋は通常営業。街の所々にテナント募集の貼紙のある店舗跡。他の街よりも閉じた店は少ない。
100均の安カバンを引きずって歩く60代女性ホームレスの髪は金髪。よくわからん。Netflix映画『浅草キッド』の広告が街のあちこちに。
訪問: 
2020.10.22,2020.12.07,2021.10.20,2021.12.08,
#東京,#浅草,#かっぱ橋道具街,#散歩,

tgghuuu pc    








太田光: 向田邦子『水虫侍』と三島由紀夫
TBSラジオ/JUNK/爆笑問題カウボーイ
21.11.16
.....三波伸介さんて,目指す対象というよりは,弟子になりたかった。ツービートが登場して『凸凹大学生』なんかに出演しても,もうビートたけしの独壇でお笑い持って行っちゃう。欽ちゃんとかのヒューマニズムのお笑いがビートたけしによって全部覆される。その時期が俺にとっては,太宰治文学への傾倒と同時期で,それで混乱した俺は部屋でぐるぐる廻る訳だ(笑) ぐるぐる廻って俺のピカソ芸につながってくんだけど。で孤独の高校時代に入ってく。高校3年間友達出来ない。
で三波伸介さんが亡くなった1982年が俺が17歳の時。で向田邦子さんが亡くなったのがその前年。俺にとって,有名人の訃報で心神喪失で放心状態になってその後何も出来なくなった経験は3人いるんです。それが向田邦子,三波伸介,松田優作の3人なんです。松田優作さんはだいぶ後ですが,向田邦子さん,三波伸介さんはほぼ同時期,俺が16,17歳の時に亡くなった。
―藤圭子さんみたいだね。
―「15,16,17と私の人生暗かった♪」宇多田ヒカルです。俺は太田光(笑)
―毎回言ってるけど(笑)
―ヒデーな。オメェが振ったから言えばそれかョ(笑)
―そこまで言ったら宇多田ヒカルだろ?(笑) 俺はオートマチックだ。オマエはマニュアルだ 。な?(笑)
だから,俺の暗黒時代と三波伸介と向田邦子の死は重なるんです。振り返って「そういうショックがあったんだ」というのに,太宰治の世界が重なるんです。そうすると価値観偽善「生まれてすみません」みたいになって,全部重なって堕ちてくんだけど。 
だから,そん時に高田文夫先生に言ったことは本当で,当時の俺が「どのお笑いの師匠につきたいか?」って訊かれたら,もちろんマチャアキもせんだみつおも好きだったけど,最終的にチャップリンになりたかった。植木等も好きだったし。だけど誰の弟子になりたいか?っていったら三波伸介さんだった。当時の誘拐報道も観てるし。誘拐報道で三波伸介がショーケンや伊東四朗と演ってる訳。で伊東四朗の『見頃・食べ頃・笑い頃』で次世代のお笑い世代が来てる訳。そこにさらに漫才ブームが来る。でもその時期に「弟子になるなら三波伸介さんの弟子」って思ってる俺は,伸介さんと自分の親父を重ねてた。自分の親父は書が上手くて,何でも博識で。そういう親父と『笑点』で落語家相手に司会をやって,「たけし,オマエなァ」っていう感じの伸介さんを重ねてた。その伸介さんが死んで,俺の行先が分からなくなって,俺は詩を書き始めた。学校行っても友達がいないし,言葉が俺の中に溜まっていく。そうすると,愉快なー♪どんどんどんどん♪みたいになってく(笑)
―何?それ?(笑)
―キャバレーロンドン♪どんどんどんどん♪ 楽しいどんどん愉快などんどん♪(笑) どんどんどんどん♪(笑) で「俺はお笑いしかない」みたいな詩を書き始める訳。詩を始めたのが三波伸介さんが亡くなったその日から,という記憶が明確にある。もう居ても立ってもいられなくなった。支えを失ってどうしていいんだか分からない。吐き出す事で何か支えを作りたい。僕のコメディアンとしてのルーツはその時期からなんです。自我の目覚めっていうか。
この間黒柳徹子さんと特番演った時に,向田邦子の秘蔵音源を聴かせてもらって。向田邦子脚本のバラエティ番組で黒柳徹子さんが主演している時の音源だけど,徹子さん自身驚いてる。で音源流したら皆盛り上がって。でこのバラエティの演出が鴨下信一。この番組の時期が1970年か1969年かどっちかなんだよ。
で向田邦子さんの『眠る盃』ってエッセイの中に「TBSのバラエティで一時期,鴨下信一さんと一緒にやっていた」ってある。向田邦子/鴨下信一の『日曜8時笑っていただきます』って番組があるから,それかな?と思って。でもその音源かどうかは特定出来なかった。別の番組かもしれないけど同時期の番組であるのは確か。での『日曜8時笑っていただきます』ってタイトルの番組の演出が鴨下信一と久世光彦なんです 。当時は「カノックス」とか出来る前で,2人ともTBS社員でした。
で高田文夫先生から教わった『おまえはただの現在に過ぎない』の制作は日本で初めての制作会社「テレビマンユニオン」だった。TBS成田闘争や損田英夫さんのハノイのドキュメンタリーがあったりして,で安保闘争に繋がっていくんだけど,その1969年の出来事があって,た萩本さん,村本さん,紺野さんら元TBSディレクター陣3人が,結果として成田闘争を手伝ってしまった格好になって,それによって大問題になる。今風にいう「大炎上」だよ。俺みたいなもん。それはそれで良いんだけど。言うなよ(笑)  で,そういう背景があって「テレビマンユニオン」が出来たのが1969年です。
で同じ1969年に東大駒場で三島由紀夫が東大の学生たちと討論した東大討論会。あれはTBSが噛んでるんです。映像を記録したのがTBSだった。
片や『日曜8時笑っていただきます』の放送開始が1970年。萩本さん,村本さん,紺野さんらの3人が,問題によってTBSを退社して安保闘争の運動の方に行く訳です。そして1969年に「テレビマンユニオン」設立。片や駒場東大での三島由紀夫の討論会も1969年。同時期です。
で,いろいろ話があっちこっち行きますけどね,俺はあのドキュメンタリーを観た時に,そういえば俺が読んだ向田邦子さんのエッセイの中で三島由紀夫のエッセイあったよな?って思ってもう1回探して読んでたんですよ。そのタイトルが『眠る盃』の中にある『水虫侍』だった。
当時観て印象に残ってるのが『ウルトラマンセブン』のメトロン星人の話。メトロン星人はタバコに薬を入れて人間同士の信頼関係を壊して人間が自滅させる作戦を遂行するんだけど,ドラマの後半で,夕焼けの中でちゃぶ台を挟んでウルトラマンセブンとメトロン星人が語り合う有名なシーンがある。そこでメトロン星人が「オマエも宇宙人だろ?」って言ってギョッとするセブン(笑)は「そんな事はない」という。で,ドラマの結末で語られるナレーション「でも安心ください,これは遠い未来の話です。そして人間たちはそんなに信頼関係を持ってはいないんです」。安保闘争で闘争してTBSを退社する判断をした「テレビマンユニオン」の元ディレクター陣。片やTBSに残っている金城さん達は『ウルトラマンセブン』の中で,そういうメッセージを語る。
でも,その当時,向田さんと久世さんと鴨下さんはTBSにいたはずで,絶対にあの闘争を目の当たりにしていたはずで,俺は「どうしてたんだろ?」って思ってた。
そこで読み直したエッセイ『水虫侍』。これ破田陽区の「反省侍」みたいだけどさ(笑) 
―「反省侍」じゃネェだろ?「ギター侍」だよ(笑)
―『水虫侍』ってどういうエッセイかっていうと,鴨下さんから「バラエティ番組やりたいから手伝ってくれ」って頼まれた。これってつまり多分『日曜8時笑っていただきます』の事。コント風ドラマの脚本を書いてくれ。筆が遅い向田さんは安請け合いしたまま,全然書かなかったんだけども,どんどん締切が近づいて,シナリオを絞り出した。向田さんの幼少期の記憶にある侍の話。小学生の時に見た侍の記憶。それを思い出して「これは面白い」と思った 。その侍が何かって,チンドン屋さんって昔はあったんです。開店なんかの宣伝のために笛吹いて太鼓叩いて練り歩く3人組か4人組。その人は何故か侍の格好。そのチンドン屋が小学校の近くで休憩しているのを小学生だった向田さんが見る。そのチンドン屋さんの侍さんが足袋を脱いで,自分の足に息を吹きかけている。それを見ていた向田さんは「お父さんと同じ水虫だ」って思う。嬉しくなってずっと見ていたら,チンドン屋は軒の家主に追い払われる。その記憶を想い出した向田さんは「時代劇でいこう」と思う。その設定を電話で鴨下さんに伝える。舞台設定は現代の下宿で,毎回色んな下宿人が登場する。そこで向田さんが考えた設定ってのが,下宿の玄関にタイムスリップで現代に迷い込んだ侍が倒れてて大騒ぎになる。その侍は「切腹するのは蕎麦屋」って言う。物を知ってる鴨下さんは電話口でその設定を聞いて「赤穂浪士ですね?面白い!」ってなって大ノリ。で蕎麦屋に入った侍は電子ジャーや電子レンジを見て言う。「これは蕎麦屋じゃない!けしからん!こんな物を使っていたら,日本は滅びる!切腹だ!」
それを聞いた鴨下さん「憂国思想ですね?」
向田さんも適当に「ええ。憂国思想です」
「原稿用紙何枚書けましたか?」
「まだ一枚も書いてません」(笑)
憂国。面白い。その線で行きましょうってなって。
で締切3日前に電話が鳴る。向田さんは「どんな言い訳しようか?」と考えながら受話器を取ると,鴨下さんが「今テレビ観てますか?テレビつけてください。三島由紀夫が市ケ谷で演説してる。」でテレビつけて映った映像が,演説を終え切腹した三島由紀夫が運ばれていくシーン。大変な事態で日本中が大騒ぎ。でまた鴨下さんから電話が来て「ご覧になりましたか?この間のあの侍のコントなんですけど,憂国で切腹はちょっとマズい(笑) ボツにして下さい」(笑)  「。。何?書いたのに。。」ってなった。で向田邦子さんは未だにそれを根に持っているってエッセイに書いてる。あの三島さんの切腹によって私はコントの脚本がボツになったと。
でその日は鴨下さんからの電話を切った後に,前にドラマの脚本のために買った占星術の本を開いた。いろんな有名人なんかの生年月日から運勢を調べてから意外と当たってるんで面白かったから。で,ここが向田さんのすごいところなんだけど,生年月日から三島由紀夫の運勢を調べた。するとそこには
「強い意思と弛まぬ決意。これが成功すれば大計画の成功者指導者になり得る人物。但し志が大き過ぎて実際の些細な生活をおろそかにするきらいがあります。概ね節度を知りません。失敗して転落した後は再び浮き上がれません。独立心は盛んですが,奇っ怪な学説や思想に傾倒しすぎるきらいがある。社会的な問題についても好んで不人気な方を応援する性質です。完璧主義で自己の欠点に過敏です。潔癖主義者で,また責任感が強いので,一度過ちを犯すと神経質になって何もかも投げ捨てます」(笑)
これは向田邦子さんの言葉じゃなくて,占星術の本に書いてある鑑定をそのまま写した文。これって本来なら痛烈な馬鹿に仕方じゃん?? で向田邦子の言葉じゃない。しかもそのエッセイのタイトルが『水虫侍』。
で向田さんは小学生の時にチンドン屋さんの侍を見たと。テレビがまだ無かった小学生の時の夢は本屋に嫁入りして本屋さんになることだったと。でも何をどう間違えたか私は今テレビ屋になっていると。
つまり,難しいことこねくり回してっていう三島文学であるとか,しかも当時,向田さんは実は不倫をしてて,その 不倫相手が自殺している。俺はそういうことを併せて考えた時の,あの『水虫侍』っていうエッセイを,当時の人は読み飛ばしちゃったんだと思う。まだ無名に近い脚本家のエッセイだしね。向田邦子なんてまだ何もわかってないんだから。で,愛人の自殺があった時期も黒柳徹子さんは向田邦子さんの部屋に遊びに来てて。でも黒柳さんは全然その自殺の片鱗すら悟れなかったって言ってる。
でエッセイに「私はテレビ屋になった」って書いてある通り,『日曜8時笑っていただきます』の脚本を書いていた。片やテレビマンユニオンが社会派報道番組を作り,片や『ウルトラマンセブン』で金城が「人間には信頼関係などなかった」語った時代に,向田邦子はコントを書いていた。久世光彦と鴨下信一と組んでTBSに入り浸っていたはず。そんな安保闘争の時代に『日曜8時笑っていただきます』でコントを書いていた。そのレギュラー主役は堺正章と結城千穂。そしてバラエティ『時間ですよ』が始まるのはその翌年なんです。そう繋がるんです。その『日曜8時笑っていいただきます』の後に『いただきます』で田中がテレビ出演する訳だけど(笑)
―関係ネェ(笑)
―じゃあその時代に他局でどんなバラエティ番組やってたか?というと日本テレビは『シャボン玉ホリデー』。NHKは永六輔の『夢で逢いましょう』。だからTBSの『日曜8時笑っていいただきます』はその対抗だった。フジテレビはその後の時期に青島幸男の『大人の漫画』をやってた。『シャボン玉ホリデー』も青島幸男さん。永六輔さんは久世光彦さんと一緒に『シャボン玉ホリデー』かなんかもやってた。つまりその一時期に後の俺を形成するものが全部あった。当時4歳だった俺が観た何か。。で結局「結局,向田邦子って一番すごい」って思わせる何か。。だってそんなエッセイの書き方ってないじゃん?
で向田邦子が一人暮らしを始めた日が東京オリンピックの日なんですよね。一人暮らしを始めた赤坂のアパートから見たブルーインパルスが描く空の五輪。。『寺内貫太郎一家』のモデルになった頑固親父が「一人暮らしなんか許さネェ」って技と喧嘩して.....

yghuujjuj pc