[東京浅草]浅草寺奥山

1742
浅草寺奥山
言問橋をわたってきたトロリーバスが,猿若町の入り口の隅田公園前をすぎると,
つぎは馬道,それから浅草観音の停車場につく。
ちょうど観音堂の横から後ろにあたるこのあたりは,かつて樹木が鬱蒼としげり,
その周辺に手品・居合・独楽まわしをはじめとする曲芸・雑芸など多くの見世物が,小屋掛け・御簾掛けで客を招いていた「浅草寺奥山」の跡だ。
ここが「奥山」とよばれるようになったのは享保2年(1742年) 以降のことらしく,
それ以前は単なる遊山地帯で,しだいに娯楽地帯に変わっていったようだ。
―高橋真一,新東京歴史案内,

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1750
八辻原(八ッ小路)広場
八ッ小路は、明暦の大火後に設けた火除地の一つである。
この地には、背負子や荷縄を造る連尺職人の住む連雀町があった。
火除地明地のため連雀町人は筋違御門の南側の一区画に移築、残り連雀町内の25世帯は三鷹の替地へ移転した。
図の左下に筋違御門と筋違橋、神田川上流の右端に昌平橋がある。

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1750
筋違門内八ッ小路
筋違御門の周囲に火除明地として設けられた広小路から八方向へ進めるので八ッ小路または八辻ヶ原とも呼ばれていた。
柳並木は浅草御門から続いた柳原土手で、その中ほどの番所小屋の後に昌平橋に通じる冠木門の横木が見える。
また番所小屋の左の屋敷と土手の間を進むと淡路坂である。
この柳原土手沿いの右下を神田川は流れている。
その右上に名所・神田明神の櫓門と本殿が見える。
左下には筋違橋を渡り枡形門を抜け神田橋方面へ向かう大名行列が描かれている。
明治45年(1912)万世橋駅が造られ、八ッ小路が駅前ターミナル広場となった。
その広場のシンボルとして、日露戦争の英雄、広瀬中佐と杉野兵曹長の銅像があった。

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