[東京新橋]市街風景


1882


"M99 Shinbashi, Tokyo." 撮影者不詳
新橋から銀座方面を写した、明治15年(1882)鉄道馬車開通以後の銀座通り。
完成直後の統一された煉瓦街の街並みは、ベランダ部分の増改築や列柱の際までの店舗拡張、
さらには日本家屋へ改築されるなどして、大きく様相を変化させています。

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1872
新橋駅

汽笛一声新橋を
はやわが汽車は離れたり
愛宕の山に入り残る
月を旅路の友として

この鉄道唱歌で名高い新橋は,明治5年に初めて東京-横浜間に「陸蒸気」と呼ばれた汽車が開通したときの起点であった。
その旧位置は今の汐留駅に残る。
この新橋から有楽町・東京駅にかけての一帯が丸の内界隈で,
そこには運輸省・朝日・毎日を始め,各新聞社劇場・都庁・中央郵便局・各種銀行があり,
その上,全国大会社の事務所が丸ビル・新丸ビル及び丸の内ビル街に集中している。
丸の内界隈はまさに日本の心臓部である。
大正3年に東京駅ができるまでは,新橋が東京の表玄関であった。
ここから有楽町に向かって左側の車窓にレンガ造りの帝国ホテルが見える。
この建物と勧業銀行との間,今は空き地になっているところに明治16年当時日本で最もハイカラなイギリス風の「鹿鳴館」が新築された。
イギリス建築技師コンドルの設計したレンガ造り4階建ての「鹿鳴館」は新橋駅から場所で乗付ける外人や我が上流社会の人々の国際的社交場で,舞踏会・園遊会・音楽会・かるた会など連日連夜華やかな集会が続いた。
当時不平等条約改正のため極端な欧化主義に推進した国策の波は夫人慈善会・ローマ字会・園芸改良運動・男女交際法改良会等を生み出し,果ては人種改造論にまで高まっていったのであった。
鹿鳴館はこうした欧化主義のセンターであり,その象徴的存在であった。
ー東京歴史散歩,河出新書,高橋真一

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