[東京新宿] 新宿中村屋~明治の芸術家たちが愛した中村屋サロン
☆荻原碌山(守衛)と新宿中村屋
#レストラン食堂
2017/1/26(木) 午前 3:04 新宿 その他芸術、アート
中村屋HPよりお借りしました。
建て直す前の新宿中村屋
2014年に建て替えられた「新宿中村屋ビル」
私が荻原碌山(守衛)の事を知ったのはもう何十年も前に読んだ臼井吉見氏作の「安曇野」でした。
確かハードカバーで5巻ほどあったと思いますが、
登場人物が「新宿中村屋」創始者の相馬愛蔵・黒光夫妻や、中村屋サロンに出入りしていた芸術家などの話が面白くて一気に読みました。
そして気が付いたら荻原守衛や中村彜の魅力に取りつかれていました。
また女性としての黒光さんの生き方にも大変興味を覚えました。
その数年後、松本に行った際、大糸線に乗って穂高駅で下車し、憧れだった「碌山美術館」を訪れました。
遠くにアルプスを望む初夏の「碌山美術館」は緑の蔦がからまる、まるでチャペルのような建物でした。
中に入って、この彼の故郷”安曇野”にふさわしい美術館だと心から思い、そして守衛の魂が静かに眠っている
ような安堵感を覚えたのです。ただ、ただ、感動するのみでした。彼の作品のみならず、彼の人柄から彼の愛まで彼の全てが沢山詰まっているような美術館でした。
1回しか訪れていませんが、また何としてでも行きたいと思っています。
そして「新宿中村屋」は創業115周年を迎え、2014年には以前の建物が取り壊され新しいビルとなりました。
子供の頃から「新宿中村屋」には行っていたので、昔の建物が取り壊されるのは悲しい気もしました。
2階で特製チキンカレーなどを食べたことが今はもう懐かしい思い出になってしまいました。
新しいビルの3Fには「中村屋サロン美術館」も出来ました。
サロンといえば、荻原守衛亡き後、黒光さんは中村屋のサロンの女主人として光輝いていったのです。
多くの芸術家がここから羽ばたいて行きました。
その間にも一時、中村屋裏のアトリエに住んでいた画家の中村彜と相馬家の長女の恋は黒光さんに引き裂かれ、中村彜は苦しみ悩んだあげく30代で肺結核のため下落合のアトリエで亡くなりました。
「骸骨を持った自画像」(大原美術館蔵)やロシアからの亡命者エロシェンコの絵などは高い評価を受けています。そして中村屋のカレーが一躍有名になる元となたtインドの革命運動家ラス・ボースをかくまったり、その
ボースと長女を強引に結婚させたり、黒光さんらしい生き方をしていました。黒光さんの人生が幸せだったのかどうかは判りませんが、愛蔵氏との間に8人もの子供を産み、亡くし、残ったのは3人だけだったそうです。
自分が生きたいように生きた彼女ですが、晩年は家族にすまなかったという思いもあったようです。
中村屋のお菓子の一つに「碌山」という和菓子がありますが、それはかつて彼女を愛した荻原碌山(守衛)への懺悔の気持の現れだったのでしょうか。
今でもこの「碌山」のお菓子を買うと色々な思いが湧いてきます。
荻原碌山(守衛)を偲ぶ時、私はいつも国立近代美術館にある”女”像に会いに行っていましたが、黒光さんとの事を思うと複雑な気持にもさせられます。守衛は黒光さんのために命を削ったような気がするからです。
でもあの像には、やはり守衛の命と魂と愛が込められていると思い納得せざるをえません。
新宿中村屋のビルが新しくなってから、まだ一度も中村屋を訪れたことはありません。
今度、新宿に行ったら訪れ、新しい中村屋ビルに行ってみたいです。
☆夢織人の街TOKYO散歩&思い出の場所Ⅱ
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[東京新宿] 忘却庵(荻原碌山アトリエ)
☆角筈の荻原碌山(守衛)のアトリエ 「忘却庵」~黒光への報われぬ愛
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2017/1/26(木) 午前 2:18 新宿 アート
私には愛する男性が4人います。
詩人で建築家の立原道造、画家の中村彜(つね)、画家の佐伯祐三、そして彫刻家の荻原守衛です。
どの方々も若くして亡くなられたという共通点があります。
角筈(現・西新宿)の高層ビル街を歩きながら、彫刻家の荻原碌山に思いを馳せていました。
明治時代、角筈の地に碌山のアトリエがありました。
彫刻家だった荻原碌山(守衛)
少女時代の相馬黒光(良)
日本のロダンと呼ばれた荻原碌山(守衛) [1879-1910、30歳没 ] は信州安曇野の生まれです。
彼と後の「新宿中村屋」を創設した相馬黒光(良)との出会いは、安曇野の道端で絵を描いている時のことでした。美しく洗練された5歳年上の黒光と夫の相馬愛蔵との交流により、彼は東京に出て画家を目ざすことになります。
信州での生活に飽き足らなかった相馬夫妻は一足先に上京し、明治34年に帝大(現・東大)正門前に「中村屋」というパン屋をオープンしました。
私のブログの先輩であるT氏によると、東大正門前の喫茶店「こころ」が当時の中村屋の店舗だったと教えて頂きました。
お店の奥には今でも相馬夫妻がパンを焼いた窯などがあるそうです。
クリームパンやクリームワッフルが東大の学生に人気がありお店は繁盛し、明治40年には新宿に
支店を出すまでになりました。
そんな相馬夫妻を追うように荻原守衛も上京してきたのです。
最初は画家志望だった守衛はニューヨークなどで勉強しますが、フランスに渡ってからはロダンの彫刻に感銘を
受け彫刻家を目指すことになります。友人の高村光太郎、戸張弧鴈、中原悌三郎などもロダンに衝撃を受けていました。2度目のフランス行きでは直接ロダンに会い、ロダンも彼を弟子として認め、指導していたようです。
守衛はその後日本に戻り、角筈の野原にアトリエ「オブリビオン(忘却庵)」を建て、政策に励むようになります。
黒光と再会した守衛は彼女にもっと惹かれて行きます。
黒光の夫の愛蔵は家には殆どいず浮気三昧、そんな彼女を助け、午後は黒光の子供達の面倒を見、お店の手伝いをしていたとのこと。
お菓子の包装や箱詰めまで
手伝っていたそうです。守衛の黒光への愛は深まるばかりでしたが、黒光は夫とは何故か離婚する気持はなかったようです。
夫の浮気を度々相談された守衛は「何故、別れないのか」と詰め寄ったこともあるそうですが、
結局彼女は離婚という道を選びませんでした。この事が次第に守衛を苦悩へと追いやって行くのです。
愛する女性の苦しみ、悲しみ、絶望感を知りながら、かたや自分の愛は心の中に押し留めなければならなかった守衛の苦悩はいかんばかりだったでしょうか。この頃の黒光の気持がどんなものだったかは推察できませんが、ここが議論の分かれる所で、黒光は決してて優しい女性ではなかった、勝気で男を惑わせる、手玉に取る
ような女性だったという意見もあります。
守衛の愛情は勿論解っていたと思います。
それでも浮気夫と別れなかったのは、子供達のことだけではなく、新宿中村屋を守りたかたのではと私は推察するのですが・・・:。
黒光さんは明治時代においては珍しく、その美貌とは裏腹に男勝りの勝気な独立した自我を持つ女性であり、
したたかな面も持っていた女性だったと思われます。
”黒光”という通名は恩師から自分の目立つ部分を抑えるようにと言われ付けたそうです。
そして守衛は愛を得られない苦しみにもがきながらも制作に打ち込みます。
そして出来上がったのが「女」像(重要文化財)です。
この女性は黒光がモデルだとよく言われていますが、実際そうだと思います。
守衛亡き後にこの像を見た相馬家の子供達は「お母さんだ、お母さんだ」と言っていたそうですが、何ともせつない話です。
「女」像は絶望に苛まれながらも上を向き希望に向かっているような姿に見えます。
この像が完成してからほどなく、中村屋の居間で黒光や愛蔵と談笑している最中、大量の血を吐き彼はその日のうちになく亡くなってしまうのです。
結核による死だとか、いや自殺だったとか色々言われていますが、私は彼の”魂の自殺”だったと思っています。
この”女”像や他の彫刻を制作した角筈にあった守衛のアトリエ「忘却庵」は一体今の西新宿のどの辺りにあったのだろうと思いながら、高層ビル群を私はさまよい歩いていました。
そして涙がぼろぼろこぼれて止まりません。
守衛の友人の高村光太郎が黒光を「あなたが彼を殺した」と責めたように、私も黒光さん、なぜ彼の愛を受け入れなかったのか・・・
と問いただしたい気持で一杯になりました。
30歳と5か月、余りにも早すぎる守衛の死です・・・・。今からもう107年前の事なのに、こんなに悲しみを覚えるのは何故でしょうか・・・。
守衛の死後、黒光は戸張弧鴈とすぐアトリエに行き、机の引き出しの鍵を開け、日記帳を取り出し、1枚1枚
燃やしたそうです。
そこには何が書かれていたのか・・・多分、黒光への愛の告白だったと思います。
黒光はその中身を見ようとせず、親友の弧鴈は泣きながら燃やしてていたそうですが、黒光さんは平然と焼いていたそうです。
角筈の野原に煙が立ち昇って行く様子が、守衛の魂が静かに天に向かって行く様子がまざまざと見えてくるような気がしました。
もしかしたら今でも彼の魂はこの角筈と呼ばれた地をさまよっているかも知れません。
それとも天国で黒光さんと幸せに暮らしているかも知れません。
長くなってしまいましたが、次回もこの話を続けさせて頂きます。
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