江戸時代(-1750年-)
日比谷今昔
江戸時代の番町は今よりも樹木が多く,広大な士族屋敷に行灯が一つずつ,それも貧乏旗本などは行燈を二つくらいにして油の節約をはかり,その暗さはまた格別であった。
狐狸の鳴く声も次第に更けて襟元から水をそそぐような風がふくときまって,
「1まあい,2まあい,3まあい・・・・」
と泣く女の声がきこえる。
「番町で眼明き盲に道をきき」
―上六番町二番地,塙保己一の帳をたれた跡は今の招魂社わきの停車場を西に入って井伊伯爵邸の筋向こうにあたる実業家・青木五兵衛の西洋館がそれだというが,
いまは全く旧態を存せず,二番地・三番地は一邸内に合併されて,かつて盲検校が
「さて眼盲きは不自由なもの」
といった辺りは,いまは(皇居)玄関前の空き地に一変した。
-矢田挿雲,江戸から東京へ,
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明治23年(1890年)
日比谷今昔-坪10円の丸の内
粗朶[ひび]をたてて海苔をとった入り江から一変して大名屋敷となり,二変して練兵場となり,三変して一部が公園になり,
一部が大会社の淵叢となった日比谷の今昔は,実に桑海の変もただならぬ。
維新前は有楽座の辺りから大手町停留所の辺りにかけて10万石以上の大名が厳めしい大名門をつらね,祝田町,宝田町,八代洲川岸などという地名以外に,「大名小路」と総称,今日でいえば永田町首相官邸の界隈に似た雰囲気の街であった。
維新後に大名屋敷が取り払われて,今の日比谷公園辺りから大手町方面にかけて,鍵の手に近衛の練兵場が設けられて,
「京に田舎」
の本文通り茫漠たる原野と化し,日暮れから通る者もいない往古の武蔵野に戻った。
しかし明治23年(1890年),陸軍省もいよいよ持て余し,
渋沢・岩崎・三井
などの富豪を招いて懇願的に払い下げの相談におよんだところ,誰一人引受人がなく,結局岩崎が貧乏くじをひいたつもりになって,107030坪を130万円弱,すなわち坪10円で払い下げた。
その後4~5年は前にも増した荒れ方で,膝を没する雑草の中にところどころ材木の山が積んであるばかり。
材木の陰で通行の女が殺されたとか気絶したとかいう物騒きわまる事件があったとは到底信じられぬくらいだ。
-矢田挿雲,江戸から東京へ,
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1894 (三菱本館にて撮影)
明治27年(1894年),
日比谷今昔-三菱ケ原
明治27年(1894年),三菱ケ原の草原の二重橋通り真ん中にただ一軒,赤煉瓦の西洋館ができた。
それがすなわち現在の三菱銀行で,曽根工学博士の設計。
工費タッタ20万円。
これが本当の草分けで,これ以来一戸建ち,二戸建ち,いわゆる三菱村の地内には大正10年,三菱所有のビルが28,
借地して外来者の建てたものが12,合計40の高楼には約400の事務所と10500人の就業員を擁し,不夜の電燭,不断の自動車,
わが国商工界の神経中枢として一坪10円の土地はいまやその1000倍にも上ろうとしていた。
まだ多少の空き地があるものの,建坪をあたってみると,
明治42年(1909年)に約10000坪,
大正3年(1914年)に約20000坪,
大正8年(1919年)に約24000坪
とふえ,なお大正13年(1924年)までに予定されるものを加うれば,総建坪135000坪に及んだ。
-矢田挿雲,江戸から東京へ,中央公論社
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明治41年(1908年)
首都の中央に一大停車場を作ろうという機運がおきた明治中期。
当時の鉄道は、
新橋を起点とした東海道、
上野からの東北道、
飯田町からの中央線、
山手線、
青梅線、
総武線
などが、まだ一部は私鉄ながらも走り出し、
これを国が買い上げ始めた時期をむかえていた。
だが、なぜか新橋―上野間だけは、馬車鉄道につづく市電が細々と結ぶだけで、鉄道網は欠落していた。
この欠落部分に巨大で豪華絢爛なステーションを設け煉瓦と石積みの高架線で結ぶのは、当時の国家的威信を内外に誇ろうという明治政府の、
ビッグ・セールスポイントとでもいうものであったようだ。
日清・日露戦争に勝ち、日本人は黒船ショック以来の長い外国コンプレックスを振り払っていた。
異様なまでの国威発揚の意識にニッポン人があげて酔いしれた時代背景があった。
明治41年3月25日、中央停車場の基礎工事着工後、鉄道院総裁の後藤新平は
「大国ロシアを負かした日本にふさわしい、世界があっと驚くような駅をつくれ。
米国で見た摩天楼を地震国日本に作れないならば、せめて横の長さで国の大きさを誇れ」。
-岸本孝「東京駅物語」1980年初版刊,
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明治43年(1910年)
三菱ヶ原は一面の草原だった。
馬場先門の前、赤煉瓦の洋館を右に、デコボコの近道に車をひきいれた。
大どんは
「この辺でお艶殺しがあったんだよ」
と、草の茂みのほうを指差した。
東京駅があたらしくできるという鉄骨工事も進行し、
ここから見ると、鉄の骨組みが城郭のとうに黒々と高くそびえている。
京橋寄り1/3ほどは煉瓦が積み上げられ、
六角の大きな屋根も形を整えつつある。
夕日をうけたこの巨体がなんとなく薄気味わるい。
東京駅と続いて工事中の高架下をくぐると、東京市役所分室。隣が鉄道院。
-櫛原周一郎「ある生涯」
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明治44年(1911年)
帝国劇場は専属俳優として、座頭・尾上梅幸、松本幸四郎、沢村宗十郎らの歌舞伎役者を揃え、
かねて養成中だった女優学校の第一期生11名もフットライトを浴びる事になった。
第一回公演、いわゆるコケラ落しには、大阪の人気俳優・中村雁治郎が一枚加わった。
大阪役者の東京出演は珍しがられたもので、初興行の売り物になった。
その中村雁治郎の東京乗り込みの話がある。
東京駅は建築最中だったので、成駒屋一行は新橋駅に夜9時についた。
役者の乗り込みには座主その他大勢が出迎えるのが慣例だが、
その夜はことに賑わしく、提灯を手に手に駅頭に集まり、
成駒屋を中心にそこで勢ぞろいの後、数十台の車を連ね銀座から京橋、日本橋と、
繁華な町々を練って帝劇に乗り込んだ。
-永井龍男「石版東京図会」
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大正10年(1921年)
日比谷今昔-三菱ケ原
明治27年(1894年),三菱ケ原の草原の二重橋通り真ん中にただ一軒,赤煉瓦の西洋館ができた。
それがすなわち現在の三菱銀行で,曽根工学博士の設計。
工費タッタ20万円。
これが本当の草分けで,これ以来一戸建ち,二戸建ち,いわゆる三菱村の地内には大正10年,三菱所有のビルが28,
借地して外来者の建てたものが12,合計40の高楼には約400の事務所と10500人の就業員を擁し,不夜の電燭,不断の自動車,
わが国商工界の神経中枢として一坪10円の土地はいまやその1000倍にも上ろうとしていた。
まだ多少の空き地があるものの,建坪をあたってみると,
明治42年(1909年)に約10000坪,
大正3年(1914年)に約20000坪,
大正8年(1919年)に約24000坪
とふえ,なお大正13年(1924年)までに予定されるものを加うれば,総建坪135000坪に及んだ。
-矢田挿雲,江戸から東京へ,中央公論社
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1920