■(旧)杉田劇場
例によってザックリと劇場について羅列する。
旧杉田劇場はまだ横浜が焼野が原の昭和21年(1946)の元旦に劇場がオープンした。
劇場は当時、市内を走っていた市電杉田線の終点・杉田停留場近くの海べりにあり、
観客席から裏庭に出ると真下まで波が寄っていた。
杉田在住の高田菊弥氏が日本飛行機から工場木材の払い下げを受けて建て、
定員は320名で昭和2l年~昭和25年まで営業していた。
アマチュア劇団の葡萄座も昭和21年11月から前後9回の公演を行い、
第6回公演で神谷量平作「ヴォルガ収容所」を上演した時は、
大入り満員で札止めの騒ぎで京急杉田駅から劇場まで観劇の人でつながったと言われており、
抑留日本兵士が歌った「異国の丘」が劇中で歌われ一躍人気歌謡曲になる。
昭和23年6月には、敗戦後、GHQから上演を禁止されていた忠臣蔵が解禁されて
五世市川新之助一座による「仮名手本忠臣蔵」(大序から討ち入りまで)の公演が横浜では戦後初めて旧杉田劇場で行われる。
しかしながら後に開場した弘明寺の銀星座や野毛の横浜国際劇場などに客足を奪われて、次第に経営困難に陥り、
ついに昭和25年(1950)3月、四年間の劇場の歴史に終止符を打つ。
旧杉田劇場と美空ひばりとの経緯は今の杉田劇場のホームページに詳しく載っていた。
開館当初の「杉田劇場」において特にヒットしたのが、「杉田劇場」の座付き劇団となった「大高ヨシヲ」劇団。
特に男前の「大高ヨシヲ」さん見たさで満員御礼の日々が続きます。
その噂を聞いたのか、美空ひばりさんのお母様、加藤喜美枝さんが初めて杉田劇場を訪れたのは、
杉田劇場の先にあった妙観寺山に花(梅や桜)が咲き誇っていたころ。
娘の和枝に大観衆の前で歌わせたいという一心でのお願いに、プロデューサーの鈴村氏ら経営陣が折れて、最初は芝居の幕間に歌わせていたそうです。
芝居の幕間ですから、歌う方にとっては大変な悪条件。
転換のために舞台からは怒声と作業音が聞こえ、タバコを吸いに海辺に出たり、喫茶室に行くため席を立つ人も多かったとか。
そんな逆境でも、伴奏なしで当時8歳の女の子は、集まったお客様のために一生懸命歌っていたそうです。
プロデューサーの鈴村氏の一言で、加藤和枝さんにステージで歌わせてみようということになり、
伴奏なしで歌わせる訳にもいかんということで、楽団を作ること、そして芸名をつけることになりました。
「美空楽団」と「美空一枝」(のちの「美空ひばり」)がこの時誕生しました。
昭和21年3月から4月にかけて旧「杉田劇場」で起こった出来事です。
横濱彷徨録
杉田劇場は今でも「新杉田駅」駅前再開発ビル「らびすた新杉田」の一角に、「横浜市磯子区民文化センター 杉田劇場」としてある。
もちろん美空ひばりがかつて出演した杉田劇場ではなく、平成17年(2005)2月に新たに開館したものだ。
今の杉田劇場自身、区別する意味で美空ひばりが出演した時のものを旧杉田劇場と呼んでいる。
その旧杉田劇場の跡地はどうなっているかというと これも同ホームページに地図がある。
早速、それを頼りに京急杉田駅から国道に沿ってJRと国道が交わる所を目指す。
確かにJRのガード下に「旧杉田劇場跡」と書かれた小さなプレートが若かりし時の美空ひばりの写真を載せてひっそりと設置されていた。
地元の人にはお馴染みなのかもしれないが、果たしてどれだけの人に知られているのだろうか。
それでもこのようなプレート自体が設置されていることが
旧杉田劇場が、そして美空ひばりが地元の人々の記憶に深く刻み込む存在であった証とも言えよう。
参考
「浜・海・道 II」(磯子区役所発行)
「昔磯子に戦争があった」
「ヨコハマ芸能外伝 杉田劇場 戦後の演劇の殿堂」(横浜演劇史研究家・小柴俊雄)
杉田劇場ホームページ
美空ひばり公式ウェブサイト
横濱彷徨録
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