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【クルマ列伝】地味なセダンがターボで豹変 「ランサーEXターボ」
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産経新聞
【クルマ列伝】
地味なセダンがターボで豹変 「ランサーEXターボ」: ランサーEX1800GSRターボ© 産経新聞 提供
ランサーEX1800GSRターボ
1979年の第23回東京モーターショーは地味だった。
石油ショック以降の厳しい排ガス規制の下、メーカーは省エネ開発に予算を奪われ、華やかなショーカーはわずか。
そんな中、ひときわ注目を集めたのは三菱自動車が海外ラリー向け限定モデルとして出展した
「ランサーEX2000ラリーターボ」だ。
4ドアセダンの「ランサーEX」に派手なエアロパーツや巨大な補助ランプを備えたスタイルは迫力たっぷりで、
4気筒2000ccのターボエンジンを搭載していた。
乗り心地は重い、堅い
ターボは排ガスの流れを使って吸入空気を強制的に圧縮してエンジン燃焼室に送り込むことで
劇的にパワーアップが図れる装置。
排ガス対策でスポーツ車を失っていた自動車業界にとってターボは高性能エンジンとして期待された。
日産が79年10月、「セドリック/グロリア」に国産乗用車で初めてターボを装着したのを皮切りに、
各社がターボ車の開発に乗り出す。
三菱もモーターショーでの好評を受けて81年11月、「ランサーEXターボ」を発売。
2000ccエンジンは認可されなかったため1800ccとなったが、クラス最強の135馬力を誇り、「ランタボ」の愛称で一躍人気となった。
ハンドルを握った印象は硬派そのもの。
堅い足回り、重いクラッチ、パワステのない重いハンドル…。
乗りこなすにはそれなりの覚悟と腕力が必要だ。
当時のターボ車の特性で、アクセルを踏み込んでもすぐにはターボが効かない。
ただしエンジンが高回転になると暴力的な加速を始め、1トン少々の車体をグイグイと豪快に引っ張る。
運動性能に優れる後輪駆動のため、走り屋からも歓迎され、峠道でクラス上のGTカーを追い回した。
驚異の160馬力
勢いに乗る三菱はすべての乗用車にターボエンジンを搭載する「フルラインターボ」作戦を掲げた。
80年代に新型車を相次ぎ投入、ランタボも83年11月、
ターボ効率を向上させるため大型のインタークーラー(冷却器)を装備して1800ccエンジンとしては驚異的な160馬力の大パワーを得る。
ターボという武器を得て誕生したランタボは「4ドアセダン+強力エンジン」という個性的なコンセプトで進化を重ねる。
その後、WRC(世界ラリー選手権)で大活躍して世界的なヒットとなった伝説の名車「ランサーエボリューション(ランエボ)」に引き継がれた。
(中村正純)
※「EX」はEXCEED:越える/卓越の意
□【データ】ランサーEX1800GSRターボ
▼エンジン 水冷直列4気筒SOHC 1795cc 135馬力
▼ボディ 全長4230ミリ×全幅1620ミリ×全高1385ミリ
▼重量 1025キロ
MSN
https://www.msn.com/ja-jp/autos/news/%e3%80%90%e3%82%af%e3%83%ab%e3%83%9e%e5%88%97%e4%bc%9d%e3%80%91%e5%9c%b0%e5%91%b3%e3%81%aa%e3%82%bb%e3%83%80%e3%83%b3%e3%81%8c%e3%82%bf%e3%83%bc%e3%83%9c%e3%81%a7%e8%b1%b9%e5%a4%89-%e3%80%8c%e3%83%a9%e3%83%b3%e3%82%b5%e3%83%bc%ef%bd%85%ef%bd%98%e3%82%bf%e3%83%bc%e3%83%9c%e3%80%8d/ar-AAuC9Zj?li=BBfTjut&ocid=spartandhp#page=2
第12回東京モーターショウ
1965年、東京オリンピックの翌年1965年はオリンピック特需の反動で景気がやや後退。
それまで前年比13%~15%の伸びをみせていたGDPが、前年比11.3%増とややパワーを落としていた日本。
しかし、年末には第二次大戦以後初となる建設国債が発行。
公共工事が増えて、景気は回復、その後1970年までつづく「いざなみ景気」の始まりの年となった。
1964年にはじめて100万台をこえて114万台となった国内の新車販売台数は1965年には114万台に増加。
特に伸び率の増加が著しかったのが乗用車で、
トラックの9.0%増に対して乗用車は24%増と、マイカー時代到来を告げた。
1965年10月末~11月に開かれた第12回東京モーターショウは、
市販車のみならず、トヨタ2000GTをはじめとする参考出品車も数多く登場し華やかさを増した。
入場者数は前回比30万人増(26%増)の146万5800人を動員。
モータリゼーションの高まりを感じさせる熱気に満ち、
その流れは1970年代初頭までつづいてゆく事になった。
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当時の自動車業界を揺さぶっていたのが自動車の輸入自由化だった。
通産省をはじめとする日本の政府は欧米からつよい揺さぶりをうけ、自動車の輸入自由化をすすめていた。
自動車業界は反対であったが、産業の国際化がすすむなかで、
いつまでも反対しているわけにもいかなくなっていた。
1965年春には政府首脳と自動車メーカー首脳が話し合い、
完成品のみなら自由化はいたしかたないという事になった。
1965年8月には乗用車の完成品のみの自由化が閣議決定。10月から実施された。
また1965年には日産自動車とプリンス自動車が合併が決定、1966年8月に正式合併のはこびとなった。
これは輸入自由化にともなう競争激化に備えた自動車業界の再編であった。
欧州メーカーに負けない技術力でスカイラインをはじめとする優れた乗用車を世に送っていた
プリンス自動車ではあったが、販売力がいまひとつで、業績が伸び悩んでいた。
そこでプリンスの主力銀行であった住友銀行が通産省の意をうけて合併先を探す事になり、
最終的に日産との合併がきまった。
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